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橋ものがたり〔第2話〕~恋心~ ・弐

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お民の脳裡に、ふと一人の少女の面影が浮かぶ。徳平店につい最近まで住んでいたその娘は美空といった。江戸では少しは名の知れた飾り職人弥助の娘で、この徳平店で生まれ育った。だが、美空は、もうここにはいない。
 その美空が、何と尾張藩ご簾中さまとして、江戸の尾張藩邸に迎えられたのは一年前のことだった。美空はその三月ほど前に、小間物売りの行商をしている若い男と所帯を持った。祝言は徳平店の差配卯之助が仲人となり、徳平店で行われた。お民・兵助夫婦はむろん、源治や他の住人も皆見守る中で、美空は惚れた男と晴れて夫婦となった。
 ところが、である。あろうことか、この若い小間物売りは尾張藩の若殿さまであった。その裏に潜む複雑な事情をお民が知る由もないけれど、色々とあって、若殿さまが一介の小間物売りに身をやつしていたらしい。
 尾張藩のお殿さまが亡くなったというので、一人息子の若殿さまは後を継がねばならない仕儀になり、元居た場所に帰ることになった。それに伴い、美空もまた若殿さまと一緒に尾張藩邸に赴くことになったのだ。
 正直言って、お民は美空がその良人―孝太郎と共にゆくことは反対であった。何しろ、大店のお嬢さまというのならばまだしも、町外れのうらぶれた長屋で生まれ育った娘が尾張六十万石のお殿さまの奥方さまになんて、そう容易くなれるものじゃない。
 でも、お民は自分の気持ちを美空に伝えることはしなかった。美空を見ていれば、到底、そんな野暮なことは言えやしない。美空が孝太郎に心底惚れているのは、誰が見ても明白だ。また、孝太郎の方も美空に―まぁ下世話な言葉ではあるけれど―ぞっこんなのは明らかだ。
 相思相愛の二人を引き裂くのはあまりに酷い。美空が惚れた男と共に生きる道を選ぶというのであれば、お民が敢えて反対する理由はどこにもない。お民は美空を心から祝福して送り出してやった。
 人は美空の辿った数奇な運命を玉の輿、夢のような立身出世だというけれど、果たして本当にそうだろうかと疑問に思わずにはいられない。人の幸せとは、栄耀栄華ができるかどうか、ただそれだけで計ることはできないだろう。しかしながら、惚れた男と添うのが女の幸せというのであれば、美空はその女の幸せを守り抜いたともいえる。
 美空は二歳で母を喪い、十二で父を喪った。美空の父弥助が亡くなったのは不幸な事故としか言いようがなかった。突如として孤児になった美空を、お民はよく自分の家に泊めてやったものだ。美空はお民より九つ下で、妹のようなものだった。
 兵助が一人住まいしていたこの長屋に嫁いできた時、美空はまだ六歳のほんの子どもだった。お民が徳平店の新しい住人となって六年後に、美空の父弥助が不慮の事故で亡くなった。同じ年―弥助が亡くなるわずか八ヶ月前に、お民の最愛の息子兵太もまた亡くなっている。
 弥助が亡くなってから後、美空は度々、お民の家に泊まりにきた。お民もまた我が子を失った淋しさ、哀しみが癒えぬ時期でもあり、当時、お民は美空を引き取って娘として育てようと本気で思案したこともあったほどだ。
 冬の夜、自分の腕の中で震えていたあの小さな娘が今や尾張藩のご簾中さまだ。妹のようにも我が子のようにも思い、可愛がったけれど、今は美空も手の届かない遠くに行ってしまった。一抹の淋しさはあっても、美空との別離は哀しい別れではない。惚れた男についてゆく晴れの門出であった。それが、せめてもの慰めではあった。
 とはいえ、永の別れとなることに変わりはない。美空が住む世界と、お民の住む世界は天と地ほどにも遠く隔たっている。あの娘と逢うことは未来永劫、ないだろう。
 確かに裏店住まいの娘が一躍、尾張藩主の奥方さまになったというのは女の出世には違いない。あの娘の幸せをけして歓ばないわけではなかったけれど、美空の脚を踏み入れた世界は、これまであの娘が過ごしてきた世界とはあまりにもかけ離れたところだ。恐らくは幸せだけではない―言うに語れぬ葛藤の連続だろう。美空の予期せぬ幸運を祝福しながらも、お民はけして幸せだけではない、あの娘のゆく末を思わずにはいられなかった。
―今頃、何とかのお局さまなんていう、お偉いお女中さまにいびられて、泣いてなきゃア良いんだけどねぇ。
 などと、要らぬ心配をしてしまうのは、やはり生来のお節介焼きのゆえだろうか。
 どこの世界にでも新参者、成り上がり者を眼の仇のように苛める輩はいるものだ。
 美空のことを考えると、まるで身分違いの相手に嫁に出した娘を心配するような心境になってしまう。
「美空ちゃん、今頃、どうしてるかしらね。何とかのお局さまなんていう、お偉いお女中に苛められてやしないかね」
 お民がふと呟くと、源治が何ともいえぬ表情をした。
「お前って奴は」
 源治はしばらく感情の読めぬ瞳でお民を見つめ、やがてプッと吹き出した。
「亭主の死んだ夜にも、美空ちゃの心配をするなんざァ、やっぱり、お前らしいな。いや、それで良い。それでこそ、お民さんだよ」
 〝お民〟がいつしか〝お民さん〟に戻っている。
 その時、お民は初めて自分が源治の腕の中にいる―そのことに気付いた。
「―!」
 お民は信じられない想いで、狼狽えた。
「あっ、あたしったら、ごめんよ。本当に今日はどうしたんだろ」
 あたふたしながら源治から身を離すと、後ろへと飛びすさった。
「堪忍。やっぱり、兵助が死んじまって、どうかしちまってるみたいだ」
 お民は真っ赤になりながら、平謝りに謝った。
「いや、良いんだよ。俺の方が先に―、いや、何でもねえ。こんなこと言ったら、あの世の兵さんに怒られそうだけど、俺の方も役得だったし」
「え―?」
 源治の言葉は、お民にとっは意味不明だった。
「いや、良いんだよ。とにかく、今夜はぐっすり眠った方が良い。これからのことは、ゆっくりと考えてゆきゃ良いさ」
 源治が明るい笑顔を見せて言い、お民は頷いた。
「そうだね。じゃあ、おやすみなさい」
「おやすみ」
 源治は片手を上げると、お民に屈託ない笑みを向けてから静かに出ていった。
 ホウと深い息を吐き、お民はその場にくずおれるように座った。
―本当に、あたしったら、どうしたんだろう。
 幾ら相手が源治だとしても―男女の仲になることなんて全くあり得ないとしても―、亭主を亡くしたばかりの女が男の胸で泣くというのは、あんまり体裁の良いものではない。
 お民は白木の位牌となった良人の傍ににじり寄る。
「お前さん、何だか、あたし、疲れちまったよ。今夜はもう何も考えないで眠っちまっても良いかねえ」
 むろん、兵助が応えてくれるはずもない。
―これからのことは、ゆっくりと考えてゆきゃ良いさ。
 何故か源治の先刻の声が耳奥で甦り、お民は小さな欠伸を洩らした。
 部屋の片隅から薄い掛け布団を引っ張ってくると、お民はそれを横になって引き被った。
「今夜はお前さんの隣で眠らせてね」
 お民は小さな位牌に向かって呟くと、位牌の乗っている机の傍で直に深い眠りに落ちていった。

 日は緩やかに過ぎていった。
 兵助が亡くなって、ひと月が経ち、やがて、四十九日の法要も滞りなく済んだ。
 江戸は梅雨に入り、陰鬱な曇り空が毎日、続いている。