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橋ものがたり〔第2話〕~恋心~

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 想いを寄せていることに気付いたのは、いつのことだったろう。源治は元々、この徳平店から近い長屋に老母と二人で暮らしていた。父親は早くに亡くなり、二つ違いの姉は十七の春、小さな紙屋に縁あって嫁いだ。その姉に三年後、初子が生まれ、母は子守も兼ねて姉夫婦と同居することになった。それを機に、源治はそれまで暮らしていた長屋を引き払い、徳平店に引っ越してきたのだ。
 それが、お民との出逢いだった。
 顔を見れば、まるでひと回り以上も歳の離れた弟か、息子に対するように母親口調で訓戒を垂れるが、口の悪さはともかく、お民の言葉には実がこもっていた。上に何とかがつくほどのお人好しで、困っている人を見れば、放ってはおけない。
 しっかり者のように見えて、涙脆くて、放ってはおけないようなところがある。あんな女といつも一緒にいて、賑やかにあれこれ言い合って暮らせたなら、一生退屈しないだろうな、そう思ったのがお民への想いを漠然と自覚した始まりだった。
 そう思うと、どうしても、お民を今までのように見られなくなった。単なるお節介焼きの近所の女房から、お民が特別な意味を持つ〝女〟になった。お民の笑顔とあの言いたい放題を見たり聞いたりしなければ、落ち着かない。その中、お民といつも一緒にいる兵助が妬ましくてならなくなった。
 もしかしたら、兵助が突如として倒れたことにも、上辺でもさもお民と一緒に心配しているようにふるまいながら、その実、心ではそれを歓んでいはしまいか。ましてや、自分でも考えたくもないことだけれど、心のどこかでは最悪の事態を―兵助の死を望んではいないか。
 そんなことを考えると、源治は我が身のあまりのさもしさと、心の醜さに嫌気が差す。
 あれほど弟のように可愛がってくれ、眼をかけてくれた兵助の女房に横恋慕し、あまつさえ、その邪な想いから兵助が亡き者になれば良いなぞと願うとは―。
 己れがそこまで堕ちたと思えば、情けないどころか、自分自身が心底厭わしかった。
 しかし、この心はどうにもならない。
 源治にとっては、己れの恋心をひた隠し、お民と適度な距離―気の置けない隣人として日々接するだけでも、相当の努力が必要だったのだ。むろん、その努力が功を奏してかどうかは判らないけれど、目下のところ、徳平店で源治がお民に恋心を抱いていると見抜いている者は一人としていないだろう。
 たった、一人を除けば。
 そう、他ならぬ兵助、お民の良人だけは、もしや自分の想いに気付いているのではと、源治は幾度か考えたことがあった。
 見かけによらず、勘の鋭い男なのだ。
 他の連中は上手くごまかしおおせているとしても、ふとした瞬間に自分がお民に向けるまなざしの熱さを兵助ほどの男が見抜いていないとは思えない。
 お民がよく喧嘩しては〝禿げ鼠〟と揶揄しているが、確かに言い得て妙で、小柄で風采の上がらない鼠のような男である。が、大工しては腕も良く、棟梁からも信頼され、若い大工からは実の兄のように慕われている。
 そんな男だからこそ、お民のような女が心底惚れているのだろう。
 もっとも、当然ながら、兵助は仮に源治の気持ちを知っていたとしても、それを大っぴらに口にするような男ではない。源治の心や周囲に及ぼす影響を慮り、その秘密をずっと己れの胸に秘めておく、そんな男なのだ。
 源治だとて、むろん、心の底から兵助の死を望んでいるわけではない。が、今回の事態をどこかで歓迎しているもう一人の自分がいる―と、そのことを完全に否定しきれない。
 お民は、本当によくやっている。こんなことになって、お民が亭主をいかほど必要とし、惚れているかを今更ながらに思い知れされたような気がする。
 源治の視線に気付くはずもなく、お民は相変わらず冷たい水を桶に汲んでは、頭から被っている。
―それでなくとも、昼間と夜っぴいての看病で疲れ切ってるっていうのに、こんな夜に冷てえ水を被って、あいつまでが倒れるようなことにならなきゃア良いが。
水垢離をするお民を、そっと遠くから心配げに見守りながら、源治は小さな吐息を零した。

     《其の弐》

 兵助の生命の焔が消えたのは、倒れて五日めの朝のことであった。発作を起こして以来、兵助が意識を取り戻すことは、ついになかったのである。
 その朝、お民はここ数日来の看病疲れがたたって、朝方、浅い眠りにたゆたった。良人の枕辺に打ち伏して、うたた寝していたお民がハッと目覚めた時、既に兵助は呼吸をしていなかった。本当に眠るように静かな最期であった。その表情からは、苦悶も一切感じられず、急きょ呼ばれてやってきた狩納玄庵もまた、〝殆ど苦しまずに逝ったはずじゃ〟と同様のことを言った。
 が、お民にしてみれば、亭主が息を引き取ったまさにその時、せめて自分が目覚めて傍に居てやりたかった―というのが正直な気持ちだった。女房である自分は傍にいるのに、眠りこけ、兵助はたった一人で旅立ったのだと思えば、我が身の迂闊さに歯がみしたい想いだった。
 亭主の今の際にさえ、自分はちゃんと傍にいて、その手を握りしめてやることすらできなかったのか。
 その後悔の念は、お民を責め苛んだ。
 野辺送りも無事に済んだ夜のことである。
 お民は惚けたように家の片隅で座り込んでいた。兵助の葬儀を終えるまでは、それでも何とか自分を保っていられたものの、いざ終わってみると、まるで身体から魂がさまよい出てしまったような、そんな頼りない心地だった。
 空しい。とにかく、何をしたいとも思わないし、生きていること事態が億劫に思えた。
 明日から何を頼りに、何を支えに生きていったら良いのか判らない。六年前、兵太が亡くなったときは、まだ兵助がいた。兵助が傍で支えてくれたから、他人の世話を焼いたり、お節介をすることで、気が紛れたのだ。
 でも、今となっては、そんなことをする気にもなれない。幾ら他人の世話を焼いても、それは所詮、一時のこと。確かに他人に歓んで貰えれば嬉しいには違いないが、所詮は、いっときの拘わり合いにすぎない。
 いっそのこと、兵助の後を追って近くの川に―兵太の生命を呑み込んだあの川に飛び込んでみようかと思うけれど、いざとなると、それもできなかった。そうなのだ。源治には偉そうに、言いたい放題、さも悟ったようなことを言ってるくせに、自分は川に飛び込む勇気一つない、―そんな意気地なしの女なのだ。
 お民の前には、小さな机がある。机の上には小さな白木の位牌がひっそりと安置され、その前に線香の細い煙が頼りなげに揺れていた。
 お民はもうかれこれ一刻半以上、こうやってこの場所に座り続けているのであった。
 ふいに、背後で表の戸が控えめに開く音がした。次いで、戸が閉まる音。
 だが、お民は振り向きもせず、その場に惚けたように座している。物言わぬ位牌となり果てた亭主の前で、茫然と座るお民。そのお民の後ろ姿は、いつもよりひと回り以上も小さく見える。
「大丈夫か」
 遠慮がちに声をかけられ、お民は緩慢な動作で振り向いた。そう、この男は、源治は亭主が倒れてから、何度〝大丈夫か〟と同じ言葉をかけ続けてくれただろう。気が付けば、いつも源治が傍にいて、心配げに見守っていてくれた。