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橋ものがたり〔第2話〕~恋心~

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―お民さんの口から礼の言葉が出るなんざァ、こいつはお天道さまが西から昇って東に沈むぜ。いや、紅い雪が降るかな。
 こんなときでなければ、源治の口からきっとそんなからかい混じりの言葉が返ってくるに相違ない。
 お民は早口で言うだけ言うと、さっと身を翻し中に入った。
 源治は、そんなやはり常とは違うお民の後ろ姿を見送り、いつまでもその場に立ち尽くしていた。
 日中は初夏を思わせる陽気だが、まだ夜は冷える。ひんやりとした夜気が兵助の身体に余計に障らねばよいがと案じてしまうのは、お民だけではなく、源治も同じであったろう。

 お民は、ただひたすら昏々と眠り続ける良人を見守った。我が身の無力さを、これほど痛感したことは、ついぞなかった。たった一人の倅を突如として失ってしまったときも、深い哀しみと底なしの絶望に突き落とされはしものの、あのときははまだ兵助がいた。共に倅の死を悼み、嘆く良人がいた。倅を失った、理不尽にも突然取り上げられてしまったことへ苛立ち、誰にぶつけてもしようのないやるせなさ、怒りを兵助に吐き出すことで、お民は正気を失うことなく済んだ。
 兵助が、良人がいたからこそ、お民は兵太を失った痛みを乗り越えられたのだ。
 でも。万が一、兵助までもが死んでしまったら。
 自分は、どうしたら良い? 兵助のために今、何がしてやれる?
 何もできない我が身が、今はただ、ただ口惜しい。お民が唇を噛んだ時、そっと背後で腰高障子の閉まる音が聞こえた。
「大丈夫か?」
 顔は見なくても、その声の主がそも誰であるかはすぐに判った。その問いが兵助の容体についてのものか、お民自身に向けられたものかは判らず、返事をしかねている中に、源治が静かな声で続けた。
「これ、玄庵先生のところから貰ってきたよ」
 お民はのろのろとした動作で振り向き、改めて源治の存在に気付いたとでもいうかのように顔を上げる。
「あ、ありがとう。お代を払わなくちゃ―」
 言いかけて立ち上がった刹那、お民は眼の前が暗くなったのを自覚した。フラリと身体が傾ぎ、倒れそうになったのを源治が脇から冴えてくれなければ、お民はとうに床で身体をしたたか打ち付けていただろう。
「そんなことは、いつだって良い」
 源治らしからぬ低い声で言われ、お民はまた腑抜けたような顔で源治を見上げた。自分が源治の腕に抱かれているのにもやっと気付き、慌てて身体を離す。
「あ、あたし、何してるんだろ。ごめんよ。何だか、ふらっときちまって。そうだ、早く、亭主に薬を呑ませてやらなきゃ」
 そう言いながら立ち上がったお民はちゃぶ台の上の湯飲みを取ろうとして、取り落としてしまう。弾みで湯飲みが畳に転がり、中の白湯が全部零れて、染みを作った。
「あ―」
 お民は瞬時に言葉を失い、声をつまらせた。
「あたしったら、一体何をやってるのかねえ。本当に馬鹿なんだから。こんなだから、兵助の健康も十分気遣ってやれなくて、この有り様に―」
 お民の眼に涙が滲んだ。
「ねえ、どうして? どうして、こんなことになっちまったの? 仏さまは本当にこの世にいなさるのかい? もし仏さまがいなさるなら、何であたしら夫婦にばかり、こんなことが続くのさ。仏さまは六年前に兵太をお連れになったばかりじゃ気が済まなくて、また、あたしから亭主まで取り上げなさろうとしなさるのかい」
 お民は厭々をしながら、まるで駄々をこねる幼児のように泣きじゃくった。
「お民さん。気持ちは判るが、しっかりしな。こんなときこそ、お前がしっかりして気を確かに持たねえといけないだろう」
 源治の大きな手が躊躇いがちに伸びてきて、そっと肩に乗る。触れられた箇所に、確かに人の温もりを感じ、お民は涙に濡れた眼で源治を見た。その温もりが今は心底嬉しい。
 真摯な眼だった。
 存外に整った貌が気遣わしげにこちらを見ていた。
 そういえば、源治の顔なんて、これまで飽きるほどに何度も眼にしているはずなのに、間近で見たのは今日が初めてのような気がする。
「今は、お前のできることをする、それしかないじゃねのか。玄庵先生も手を尽くすとおっしゃってるんだ、とにかく良い方向に向かうように祈ろう」
「うん、そうだね」
 お民はいつになく素直に頷く。
 源治の手がいつのまにか離れていることにも気付かなかった。

 玄庵はその夜が山だと言ったけれど、結局、朝方には兵助は持ち直していた。ただ、それは病が癒えたというのではなく、一時的に小康状態を保っているだけのことだ。危険な状態は依然として続いていた。
 お民は処方された薬を日に三度、根気良く呑まし続け、汗をかいた身体を丁寧に拭いてやった。甲斐甲斐しく看護を続ける傍ら、夜は夜で長屋の住人たちが寝静まっている時刻、井戸端で水ごりを始めた。
 兵助が倒れてから三日めの夜。
 源治の家の住まいから、人影がそっと滑り出てきた。
 源治はお民の身が心配でならず、様子を見に出てきたのだ。お民が水ごりをしていることは、むろん源治も知らない。
 斜向かいの家を覗いてみても、粗末な布団に兵助が横たわっているだけで、お民の姿は見えない。病人一人を放り出して留守にするようなお民ではない。第一、こんな夜更けに出かける場所もないはずだ。
 源治が訝しみながら家に戻ろうとした時、かすかな水音が聞こえたような気がして、立ち止まった。
 源治はゆっくり歩いて、水音のする方へと近づいてゆく。やはり、聞き間違いではなかった。長屋の住人が共同で使用する井戸傍で、お民が白装束となり、頭から水を被っていた。 皐月の初めとはいえ、まだ水は冷たいだろうに、お民はそんなことに頓着する風もなく、井戸から水をくみ上げては、繰り返して頭から水をかけている。白い夜着が濡れ、お民の豊満な身体の線を露わにしていた。豊かな乳房が濡れた着物越しにその輪郭をはっきりと表している。
 しかし、当のお民は遠くから自分を見ている男がいるなぞとは想像もしていない。ただ無心に、ひたすら水ごりを続ける。
 良人の回復を祈りながら水ごりを続ける女を、そのような欲にまみれた眼で見る自分。そんな自分に嫌悪感を感じ、源治はふっと眼を背けた。だが。
 本当のところはどうなのか。お民の豊満な身体から眼を離せない自分がいやだというよりも、自分ではない男―亭主のために一心に祈りを捧げる女を見るのがいやだったのかもしれない。
 兵助は見た目はそうは見えないけれど、男気のある面倒見も良い男だった。その点はやはり、お民とは似た者夫婦ということだったのだろう。源治にも弟分として眼をかけてくれ、自分が世話になっている棟梁にも口を利き、よく仕事を回してくれる。ゆえに、源治は兵助と同じ仕事場で仕事をすることも多かった。
 そんな時、お民の作った弁当だと、二人分の弁当を下げてやってくる兵助を、源治はどこかで羨んではいなかっただろうか。