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橋ものがたり〔第2話〕~恋心~

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 空になった器を土間まで運び、手早く洗った。その間、兵助は腹這いになって、愉しみの食後の一服を吸っている。
「お前さん、煙草も止めるなとは言わないけれど、心ノ臓には良くないって玄庵先生が言ってるんだから、少しくらいは減らしてみたら」
 全く我ながら説教めいた科白ばかりだと思うけれど、これも兵助の健康を気遣うあまりであった。兵助は酒は呑まないが、煙草が好きで日に相当量を吸っている。これは兵助の持病には決定的に悪影響を及ぼすものだと玄庵からも厳重に戒められているのだが。
 存外に頑固なところのある兵助は、〝俺の唯一の道楽を取り上げるのか〟といっかな聞く耳を持とうとしないのだ。
「全っく、煩せえ女だぜ」
 兵助は口ぶりとは裏腹に、少しも怒ってはいない様子で言うと、上半身を起こした。
 勢いよく煙管を煙草盆にポンと打ち付け、立ち上がる。
「ちょっと、厠にでも行ってくるわ」
 長屋では共同で使う厠と井戸がある。むろん、風呂などがあるはずもなく、湯を使うとは銭湯にゆくのだ。
 食後の一服の後、厠に行くのも、これまたいつものことゆえ、お民は振り返りもせずに頷いた。
「ああ、お前さん。その後で良いから、源さんのところに鰻を持っていってあげておくれよ」
 〝源さん〟というのは、斜向かいに住む左官源治である。二十五になってもいまだに独り身で、お民の毒舌の犠牲になっているという点では、兵助と同様だ。長身で、女ながらも〝天を衝く大女〟と揶揄それることのあるお民よりも更に幾分かは上背がある。顔立ちも整っているし、それなりの男前ではあるのだが、どういうわけか女っ気は全くない。
 いや、あまりにもそういったことに疎いので、実は想いを寄せられていても、当人は全く気付いていないということもあるらしい。
 二年ほど前、近所の筆屋の看板娘から付け文をされた時、源治は返事を訊きにきたその娘にこう言ったそうだ。
―申し訳ねえが、俺には惚れた女がいるんだ。
 当時、徳平店では、源治の放ったそのひと言が大変な物議を醸した。
―あの昼行灯の、いつもボゥっとした源さんに惚れた女がいたなんざァ、それこそ初耳じゃねえか。一体、どこの娘なんだ?
 噂は噂を呼び、近くの一膳飯屋の色っぽい女将が相手ではないか、いや、八百屋の、あの色の白い可愛い娘がそうではないかと、長屋の住人は興味本位にあれこれと取り沙汰したものの、結局、源治本人があまりにもそのことに関してあっけらかんとしているので、直にその話は沙汰止みになった。
 もしかしたら、筆屋の娘に懸想されたのがいやで、断る口実に惚れた女がいるなぞと嘘を言ったのではと、勝手に結論づけられることになった。
―勿体ねえ。筆屋の娘は、ここいらでも評判になるほどの器量良しじゃねえか。
 と、皆は首をしきりにひねったものだが、とにもかくにも、源治が相も変わらず淡々としているため、騒いでも面白くない。
 良い歳をした大の男がいつもお民に小言ばかり言われているが、源治は悪い顔もせず適当に受け流している。が、お民はこの源治にも毒舌だけでなく世話焼きぶりを存分に発揮して、多めにこしらえた惣菜を度々〝お裾分け〟と称して届けていた。
「おうよ」
 ほどなく返事が聞こえ、兵助が出て言った気配がした。表の腰高障子が閉まる音。
 そして、続いて、ドウと何かが倒れる派手な音がして、お民はハッとした。
「お前さんッ?」
 お民は慌てて腰高を開け、外へ身を走り出た。向かい合って建つ長屋に挟まれた狭い路地に、小柄な兵助の身体が真横になって倒れている。
 お民の口から、咆哮のような悲鳴が洩れた。
 ただならぬ声に、すぐに斜向かいの家の戸が開いた。
「どうしたんだい」
 源治は道に仰向けになって伸びた兵助をひとめ見るなり、血相を変えた。
「こいつは、いけねえ。お民さん、何をぼうっと突っ立ってるんだ? 早く玄庵先生を呼んできな」
 いつもの大人しい源治とは別人のような切羽詰まった様子で、源治が怒鳴った。
「あ、あいよ」
 お民は頷くと、近くの老医者の住まいまで走った。その間に、源治は慎重に兵助を抱え上げ、お民と兵助の住まいまで運んだ。
 お民が玄庵と共に駆けつけた時、既に兵助は薄い夜具に寝かせられていた。源治が気を利かして、布団を敷いてくれたものらしい。
 兵助を丁寧に診察した玄庵は、難しい表情で首を振った。
「―先生」
 お民は絶句した。
 玄庵に眼顔で促され、お民は外に出た。
「先生、うちの人は」
 言いかけて言葉を失ったお民に、玄庵は低い声で応える。
 いつもは仙人を彷彿とさせる優しげな細い眼が心なしか険しかった。
「間の悪いことに、発作を起こしちまったな。この分では、持ち直すかどうか」
「そんな、じゃあ、先生、うちの人はもしや―」
 死んじまうんですかと、言いかけて、お民はその言葉のあまりの禍々しさに慄然とする。
「先生、お願いですよお、何とかしてやって頂けませんか。あの人、まだ三十二なんですよ。このまんまじゃ、あんまりですよお」
 お民の心に溢れた熱いものは、そのまま涙となった。泣きながら訴えるお民に、玄庵は幾度も頷いた。
「それは判っておる。儂もできることならば、兵助さんの生命を救いたい。じゃが、お民さん、残念なことに、この世にはあらかじめ御仏が定め給うた生命―定命があっての。それは、たとえ我ら医者とても、どうにもならぬことじゃ」
 その時、背後から、ゾッとするほどの声が聞こえた。
「先生、今はそんなことを言ってる場合じゃないだろう? 定命だが、何だか知らねえが、そんなことは坊さんが口にする科白だし、第一、兵さんはまだ死んだわけでもねえし、ちゃんと生きてるんだ。今は何の役にも立たねえ理屈を並べ立ててるよりは、医者なら、手を尽くすのが先じゃないんですかい」
 いつもの源治とは思えないような凄みのある声に、玄庵がやや気圧されたように頷く。
「確かに、お前さんの言うことは、もっともだ。理屈を言うのは後でも十分間に合うな」
 玄庵は頷き、お民に言った。
「お民さん、とりあえず今夜が山だと思うてくれ。それと、病人の身体を冷やすのは良くないから、上にかけるものは十分かけてあげる方が良いな。薬を出すから、後で誰かに取りにきて貰うように」
 先刻よりは幾分か穏やかな玄庵の声に、お民は頷いた。
「くれぐれも気を落とさぬようにしなさい。儂もつい言わでものことを言うてしもうた」
 玄庵は小さく頭を下げると、薬籠を抱えて帰っていった。
 その小柄な後ろ姿を見送りながら、お民は源治に言うともなしに言った。
「源さん、玄庵先生にあんな風に突っかかっちゃア、いけないよ。先生だって、精一杯手を尽くして下さってるんだ」
 たしなめる口調ではあっても、いつもの威勢の良さは全くない。
 源治は肩をすくめた。
「そりゃア、そうだが、聞いちゃいられなかったんだよ。だって、あの先生らしくもなく、治療する前からもう駄目だって諦めてるような口ぶりだったじゃねえか。それを聞かされてるお前の身になったら、たまらなくなっちまって、それでついカッとなって、さ」
「―私のために言ってくれたんだってことは判ったよ。それは嬉しかった、ありがと」
 いつもなら、絶対に言えない科白だ。