からから
からから。
今日も僕は、空を見上げる。
今日も僕は、耳を澄ませる。
今日も僕は、幻を見る。
そして。今日も僕は、みんなと違う日常を生きてる。
窓辺の机。真新しい教科書。耳に届く、簡単な英文。柔らかな日差し。開花の遅れた桜の花びらが、時折、風に舞い上がる。
さっきから、窓の外を小さな蛇が飛んでいて、集中できない。若草色の小さな蛇は、細い身体をくねらせて窓の外を行ったり来たりし、僕をからかっている。時折吹く風に呆気なく飛ばされては、また戻ってくるのだ。
「片桐くん。ちゃんと聞いてるの?」
英文が途切れたと思ったら、そんな声が聞こえた。この春赴任してきたまだ若い英語教師は、綺麗な顔を歪めて言葉を続ける。授業中に何を見てたの、と。
「窓の外を飛んでる蛇が、僕をからかうんです」
「蛇?」
笑い声が、あちこちで上がった。窓の外に目を向ける教師に、前の席の生徒が言葉をかける。
「先生、双葉はカワリモノだから、相手しない方がいいよ。あだ名がホラ吹き」
三階の窓の外に、蛇なんかいるわけないだろ。特定できない誰かの声に、騒がしさが増した。
「片桐くん。今年は受験なんだから、ちゃんと勉強しなさい」
高校生にもなって。付け足すように言われた言葉が、気に入らなかった。高校生が、他人と違うものを見るのはいけないことだろうか。小さい頃は誰だって、何かを見ていたはずなのに。
「先生。授業、続けてください」
誰かの一言で、教室の中は日常に戻っていく。僕の視線の先で、若草色の蛇がにやりと笑った。
耳に届く、簡単な英文。春の日差し。
突然、折り畳まれたノートの切れ端が、机に置かれた。隣の席の女の子が、僕を見ていた。名前は知らない。去年までは、別のクラスだったから。
どんな蛇?
小さな紙切れには、きちんと整った字で短くそう書かれていた。もう一度顔を上げると、好奇心の強そうな目が見えた。からかいも、否定もない、ただの好奇心。
僕はルーズリーフの端を破って、小さな蛇の絵を描いてやった。そいつの色合いとか、目つきの悪さとか、風に飛ばされる滑稽な姿とかを、細かく。それから、思い至って一言付け足す。
名前、なんていったっけ?
小さなメモは、すぐに帰ってきた。
坂本さつき。他には、何が見える?
坂本さつきは窓の外に目を向けて、一心に景色を見ている。見えない蛇を、探している。
いろいろ。
僕は、紙切れの上にペンを走らせる。
ガラスの中の蝶とか。空を飛ぶクジラとか。風を渡る魚とか。
ふと、目を向ける。いつの間にか、窓の外の蛇はいなくなっていた。
からから。
忘れなくてはいけないものを、僕は今でも追いかけている。
忘れなくてはいけない夢に、僕は今でも手を伸ばす。
忘れなくてはいけない何かを、僕は今でも覚えてる。
だけど。いつかは、忘れてしまうだろう。忘れたことさえ忘れるのだろう。
風が吹いている。
屋上の手すりに腰掛けて、一人の少女がぼんやりと空を見ていた。六歳くらい。白いワンピースの裾から、細い足が覗いていた。青いガラスの花瓶を小さ両手で抱えている。
『何してんの?』
心の中で問いかけると、にこりと笑って彼女は答えた。高い、鈴のような声だった。
『風を待ってるの』
桜の花びらが、流れていく。ふわりと舞い上がって、どこか遠くへ。
『風なら、吹いてるよ』
けれど、少女は首を振る。
『この風は、違うの。私が待ってる風じゃない』
「双葉くん」
不意に後ろから、声をかけられた。振り返ると、坂本さつきが立っていた。結い上げることもなく流された真っ黒な長い髪を、微かな風が揺らしていく。
『来た』
微かな声。手すりの上で、少女が立ち上がる。
『じゃあね。お兄ちゃん』
彼女は幼い口調でそう言って、屋上から身を躍らせた。その姿が深い青の魚に変わり、風に溶けた。そうして、一瞬のうちに桜の花びらを巻き上げていく。どこか、遠くへ。
「どうしたの?」
不思議そうに聞かれて、首を振る。
「坂本さんこそ、何か用?」
問い返すと、彼女はブレザーのポケットから紙切れを取り出した。英語の授業中に渡した紙切れ。
「空飛ぶクジラって、ほんと?」
好奇心に満ちた目。思わず、言葉が漏れていた。
「それなら、今もいるよ」
春霞。僅かに煙ったような青。雲のない空を、大きなクジラが泳いでいる。天気の良い日は、いつも。堂々と。悠々と。海とは異質の青を泳ぐ、あの大きな姿。シロナガスクジラだって、あれにはきっと適わない。
「どこ?」
わかんないよ。残念そうに言いながら、さつきは眩しそうに空を見上げる。彼女には、見えていない。他の誰にも見えていない。わかっていたはずなのに、やっぱり悲しい。
「何で、興味なんか持ったの?」
空飛ぶクジラなんて、いるわけがない。誰もが、そう決めつけたのに。
「見てみたかったから、かな」
「僕が嘘ついてるかもしれないじゃん。あだ名がホラ吹きだし」
「それは、ないよ」
適当な答えを口にして、さつきはクジラを探し続ける。呆気にとられてしまって、僕は言葉が続かなかった。
「昔、水の中を飛ぶ鳥を見たよ」
とっておきの秘密を打ち明ける子供のように、さつきが静かな口調で言った。
「川の底をね、楽しそうに飛ぶの。見たことある?」
僕は、黙って首を振った。
「それっきり、見えなくなっちゃったけど。でも、確かにいたんだ」
小さい頃は誰だって、何かを見ていた。いつの間にか忘れてしまうような。あっさりと記憶から追い出されてしまうような。そんな、夢を。幻を。
忘れられずにいる僕は、ホラ吹きになった。
「あんまり、僕に関わらない方がいいよ。変人扱いされるだけだから」
風が吹く屋上を後にする。追いかけるように桜がひとひら、足元に舞った。
心の中に、何かが生まれた。
水面に落ちる、ひと雫。波紋を広めて、波を生む。果てない心に広がっていく。
僕の心の中で、あいつが文句を言った。
大丈夫だよ。すぐ、消えるから。きっと、消えてしまうから。
今日も君は、空を見上げる。
今日も君は、耳を澄ませる。
今日も君は、幻を見ようとして。
そして、今日も君は、僕のそばにくる。
すぐに消えると思ったのに。僕のそばから。
五月の半ば。桜はとっくに葉を茂らせた。季節が移り変わろうとする中で、さつきは飽きもせず、毎日のように僕の前に現れた。
「この中に、何かいる?」
登校してくるなり、さつきは小さな瓶を僕の机に置いた。空の瓶。昨日、ガラスのペーパーウェイトの中に蝶が見えた話をしたから、その影響だろう。
「何もいない」
素っ気なく答えると、さつきは残念そうにため息をついた。
「その瓶、あげる」
「もらっても困るけど」
そう言いつつ、僕は小瓶の蓋を開けるとペットボトルからミネラルウォーターを注いだ。
「何してるの?」
さつきが首を傾げた。
「空にしておくと、棲みつくやつがいるから」
「何、それ?」
僕の心の中で、あいつが騒いだ。
「からからって、呼んでる。空っぽのとこが、好きなんだ」