からから
僕の心に、棲んでいる。空っぽのとこが好きだから。だけど、最近は居心地が悪そうだ。さつきが、現れてから。
心に落ちた、ひと雫。波紋はどんどん広がった。
僕の心には僕がいて。そこは前より温かくって。家族やさつき、友人たちや、今日会った人が現れるんだ。
だけどそれとは反対に、からからはなぜか弱っていった。
空飛ぶクジラを見る回数も、なぜだか少なくなっていた。からからが弱ったせいなのか、僕が何かを無くしたからか、僕にはわからなかったけど。
それでもさつきは毎日のように、僕の話を聞きに来た。変わっていると、評価されても。周りから白い目で見られても。ずっと。ずっと。
どうして、と、聞いてみたかった。
周囲の視線に耐えかねて、一人泣きそうになっていたことを僕は本当は知っていたから。
辛いならどうして僕のそばにいるのか、聞いてみたかった。けれど、たった一つの質問は言葉に変わることもなく、僕の心の奥底に沈んだままで動かなかった。
言葉にしたら、さつきが離れていってしまう気がして。
無くしたくない。そばにいてほしい。そんな身勝手な思いが湧き上がっては、また沈む。からからが、冷たい目でそれを見ていた。
からから。
僕に見えているものが、君にとっては幻なのに。
僕の言葉を、君は信じた。
君だけが、僕を信じた。
そして。僕の心に光が生まれた。
「お前らさ、付き合ってんの?」
それは昼休みの教室でのこと。侮蔑に満ちた問いかけに、教室中が耳をそばだてた。無邪気な問いかけ。その中に、確かに微かな悪意を感じた。
僕の隣に座るさつきは、ただ黙って僕の様子を窺った。その目がどこか悲しそうだったから僕は、彼女を離すことにした。
「別に。そんなんじゃ、ないから」
さつきが、立ち上がった。鞄も、小さな弁当箱もそのままにして、小走りに教室を出て行く。さつきの目元で、何かが光った。机の上では、水の入ったガラスの小瓶が、きらりと光った。
「さつきちゃん、かわいそう」
誰かの言葉が、耳に届く。誰に向けた言葉なのか、わからなかった。
からからが、笑った。意地悪な笑い方で。けれど、それはすぐに、悲しみに掻き消された。
僕はこのとき、初めて知った。悲しみも、確かに心を満たすことを。虚空とは違う温度で、確かに心を潤すことを。からからに渇いた心を、確かに埋めていくことを。
僕は窓を大きく開けて、ガラスの小瓶の水を捨てた。そして、からからに言った。出ていけ、と。
からから。
僕もいつかは忘れるだろう。
小さな夢や、幻を。
大人になって。うつつに慣れて。
それでも。僕が全てを忘れるときに、君は笑ってくれるだろうか。
隣で笑ってくれるだろうか。
屋上で、さつきは空を見上げていた。幻のクジラを探して。晴れた空に、クジラはいなかった。僕にも、見えなかった。
「空っぽだよ」
さつきが、僕に気付いて。僕の持つ空の小瓶に気付いて、声をかけてきた。その目は、既に渇いていた。
「空じゃないよ。からからが、いるんだ」
光。波紋。さざなみのように。喜び。悲しみ。嬉しいとか。苦しいとか。いろんなものが増えてしまった僕の心は、からからには合わなかった。あいつは窮屈になっていく僕の心を捨てて、ガラスの小瓶に入っていった。静かな場所に。空っぽの場所に。
「もう、何も見えないんだ」
いつだって、見えていたものが。
「ガラスの中の蝶も、風を渡る魚も、わからなくなった。空を泳ぐクジラも、見えないんだ」
それは、僕が現実を生きている証。いつか、みんなと同じように、大人になって。いつか、全てを忘れて。そうして、何も無い退屈な毎日を、生きていかなきゃいけないのだから。
「さつき。どうして、僕のそばに来たの?」
からから。虚空の心はもう無くて。僕の心は、いろんなもので満ちている。
「中学のころから、知ってたんだ」
さつきが、答えた。空に目を向けたまま。
「新聞に、双葉くんの詩が載ったよね。私、あれが好きだった」
ローカル新聞の、隅。隙間を埋めるためだけに、詰め込まれたような記事だった。
「朝日に溶け出す氷の中に
小さな鳥が飛んでいた
光に消えてくその鳥が
忘れないでと言ったから
僕は小さな約束をした」
小さな声で、さつきが言葉を紡ぐ。
「この人には何が見えてるんだろうって、ずっと気になってた。同じものを、見てみたかった。ホラ吹きとか呼ばれてても、関係なかった」
「もう、見えないんだ」
僕は卑屈になって繰り返した。子供の夢とか、幻だとか。薄れていくんだ。少しずつ。
「それでもいい」
さつきが呟いて、静かに笑った。その向こう。晴れた空の彼方に、クジラの尾鰭が見えた気がした。
僕が全てを忘れるときも、君は笑ってくれるだろうか。
隣で笑ってくれるだろうか。