妖婦と呼ばれた女~哀しき恋歌~(中編)
橘乃は今、居室に一人座りながら、除夜の鐘に耳を傾けていた。木檜藩の上屋敷は江戸でも外れに当たる和泉橋町の一角にある。近くには黄檗宗の名刹随明寺もあることから、除夜の鐘の音がよく聞こえる。すべての罪障を滅するという鐘の音は清浄として、真冬の夜気に染み渡り、溶け込んでゆく。
橘乃はそっと腹部に手を当てた。
かすかな動きが伝わってきて、自然に笑みが零れる。腹の赤児は順調に育ち、年が明ければ直に六ヵ月を迎える。既に着帯の儀も終え、二、三日前からは胎動を感じることができるようになった。帯の上からも膨らんだお腹はそれとはっきり判るようになった。
橘乃の懐妊は着帯の儀と同時に公表され、先代藩主から仕えてきた古参の重臣たちは、皆、この慶事にはらはらと嬉し涙を零した。
その一方、稀代の妖婦との異名を取る橘の御方の懐妊を歓迎すべからざる事と受け止める輩はけして少なくはなかった。
嘉宣は秋頃からは再び政務に身を入れるようになったものの、橘乃への寵愛は相変わらずどころか、以前にも増して厚くなるばかりである。橘乃自身が嘉宣の寵を良いことに政に口出しするとか、身内を引き立てて欲しいと願うわけではない。
しかし、嘉宣は橘乃一人いれば十分と広言してはばからず、正室を迎えようとはしない。橘乃の懐妊はめでたいことに違いはないが、重臣一同としては、嘉宣にしかるべき大名家から妻を迎え、できれば、正室に世継を生んで欲しいと願っているのだ。
嘉宣はまだ十九歳の若さだ、何も馬廻り役の娘一人だけでなくとも、正室を迎えれば、子は幾人もなせるだろう。なのに、嘉宣は、橘乃を思いやり、けして他の女に手を出そうとはしない。木檜氏の家臣たちにとって、それは憂慮すべき事態であり、嘉宣が強情を張り続けている限り、彼等にとって橘乃は眼触りで鬱陶しい存在でしかなかった。
―殿、けして私以外の女子にお触れになっては嫌でございます。
また、中には橘乃自身が寝所で嘉宣にしなだれかかりながら懇願しているのだと論じる者もいた。むろん、それは事実無根の噂に違いなかったが、あたかも悪い噂が真実のように取り沙汰されるのは、いつの世も珍しい話ではない。
橘乃がそんな家中の冷たい視線を感じないわけはない。むしろ、自分を見る周囲の眼が日毎に蔑みを込めたものになってゆくのをひしひしと自覚している。
だが、と、橘乃はここでまたクスリと笑みを洩らす。
―言いたい者には好きなだけ言わせておけば良い。
この子さえ、腹の子さえ生まれれば、橘乃はもう天下を取ったも同然だ。たとえ誰が何を言おうとも、もう橘乃に面と向かって歯向かい、楯突くことのできる者はいなくなる。
腹の子は男の子だ。何故か、不思議と橘乃にはその自覚があった。他人が聞けば、生まれる前から益体もないと笑われるだけだろうが、橘乃には根拠はないけれど、ある確かな予感があった。
男子を生めば、橘乃の立場は盤石となる。嘉宣には正室はいない。ゆえに、嫡子を生んだ橘乃が世継の生母〝お袋さま〟としての尊崇を受けることになるだろう。
あと少し、もう少し待てば、すべては完了する。邪魔者を消せば、後は月が満ち、この子が生まれ出てくるのを待つだけ。
橘乃が我知らず会心の笑みを洩らしたその時、背後の襖が音もなく開いた。
「まだ起きておったのか」
嘉宣の声に橘乃は笑みを消し、その場に手をついて迎え入れる。
「夜更かしは身体に障ろう」
嘉宣は橘乃の腹が膨らんでゆくにつれ、いささか構い過ぎるのではないかと思うほど、彼女を労わるようになった。
「今年は様々なことがございましたゆえ、過ぎこし方に想いを巡らせておりますと、余計に眠れなくなってしもうて」
少し甘えたように訴える。口にしたことは、満更すべてが出任せというわけではない。
嘉宣との出逢い、突然の召し出し、そして許婚者との別離。世間など何も知らぬ小娘が一国の藩主の寵愛第一の愛妾となり、藩主の御子を身籠もった―。たった半年の間に、橘乃の人生は真っ逆さまに変わった。
最初はただ、嘉宣を愛しい、好きだという気持ちしかなかったのに、いつから、このような野望を抱く浅ましい女になったのだろう。
時々、今でも橘乃は自分を覚めた眼で見ているもう一人の自分がいることに気付いていた。
思えば、あの時―春瑶院が毒薬を橘乃に飲ませようとしたときこそが橘乃の運命の転機だったのかもしれない。殺さねば、逆に殺される。そう咄嗟に思ったのと、自分の大切な人たち、即ち腹の子と嘉宣を守るためには夜叉にもなろうと覚悟を定めた。
だが、今となってみれば、あの出来事があってもなくても、遅かれ早かれ自分は今と同じ道を辿っていたのではないか。
元々、自分の中には魔性の血が潜んでいたのだろう。嘉宣の前では空涙さえ流し、傷ついて打ち震える薄幸な女を自在に演じることができる真実の〝稀代の妖婦〟。
むろん、嘉宣への愛が消えたわけではない。むしろ、閨で烈しく交わっている最中には、このまま死んでも良いと思うほど、この男を愛しいと思える。
だが、今の橘乃が嘉宣を己れの野心のために利用しているのは紛れもない事実だ。もし、嘉宣がその真実を知ったら、どうするだろう。
一瞬にして愛が覚め、橘乃を棄てるだろうか。
殿ただ一人の側室として時めき、嘉宣からこれほど大切に扱われていても、時々、妙に空しくなるときがあった。
ただ一人の男、女として純粋に愛し合い、求め合うだけで、何故、自分は満足できないのだろう、と。惚れた男の愛の他に、一体、何を望むというのか。
いや、望むものなら、たくさんある。
まずは、生まれてくる我が子の立場を揺るぎないものにしておきたい。
橘乃は自分の身分が低いことをよく心得ていた。嘉宣が正室を迎えたとしたら、まず自分の生んだ子が世継となれることはあるまい。そのためには、手練手管を使って嘉宣を絡め取り、他の女に眼を向けさせないようにしなければならない。
橘乃の生んだ子が晴れて木檜氏の嫡子となれば、橘乃の立場も自ずと上がる。もう誰も橘乃を妖婦呼ばわりしたり、蔑んだりはできないだろう。
自分を軽蔑したすべての人間を足下にひれ伏せさせ、這いつくばらせてやる。そのときのことを想像しただけで、笑いが止まらない。
身をすり寄せる橘乃に、嘉宣は相好を崩した。
「さもあろう。まあ、終わり良ければ、すべて良しだ」
嘉宣は意味深なことを言い、意味ありげな眼で橘乃を見た。
「丁度良かった。そなたに逢わせたい者がいる」
嘉宣がパチンと指を鳴らすと、かすかに庭の樹がざわめいた。
嘉宣は大股で部屋を横切り、庭に面した障子戸を細く開ける。
細い月がかすかな光を放っていた。刹那、ザッと椿の葉が揺れた。
橘乃が愕きに眼を瞠っていると、いつしか黒い影が濡れ縁の向こうに蹲っていた。あたかも庭に溜まった薄い闇が凝(こご)って人の形を取ったようだ。あまりの不気味さに、流石に橘乃も背筋が冷たくなるのを感じた。
「―」
無言で振り返り、傍らの嘉宣を見上げる。
と、嘉宣が口の端を引き上げた。
「影、だ」
「影―?」
問い返せば、嘉宣はこれまで見たこともなかったような晴れやかな貌をしている。
作品名:妖婦と呼ばれた女~哀しき恋歌~(中編) 作家名:東 めぐみ