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妖婦と呼ばれた女~哀しき恋歌~(中編)

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「当然にございましょう。むろん、生まれるのが若であればの話ですが。ま、最初は若でも姫でもよろしいかと思うております。橘乃も私もまだまだ子は授かることができましょうほどに」
「嘉宣どの」
 春瑶院が初めて名前で呼んだ。
「何でございましょう」
 嘉宣も端座したまま、応える。
「そなたは、もう正室は娶らぬおつもりか」
 わずかな沈黙の末、嘉宣は静かな声で頷いた。
「はい」
 春瑶院の細い眼がカッと見開かれた。
「それはならぬ、それだけは、なりませぬぞ。そなたがどこの馬の骨とも知れぬ女子を側に置く―、百歩譲って、それは認めましょう。さりながら、その身分賤しき女の生んだ子を世継とし、更には正室も迎えぬなどと、そのような馬鹿げたことは、この母が許しませぬ」
「母上」
 嘉宣は淡々と言葉を紡いだ。
「正室、正室と仰せになりますが、たとえ形ばかりの縁(えにし)を結んだとて、それが何になりましょう。愛も情もない結婚など、私だけでなく相手の姫君にも酷(むご)いことです。母上は、お幸せでございましたか? 父上と共に過ごされた年月に何の悔いも見果てぬ夢もないと言い切れますか? 私はお二人の姿を間近で見て、つくづく思うたのでございます。互いに心の通わぬ夫婦ほど空しいものはないと」
「―」
 春瑶院の顔が見る間に強ばり、蒼褪めてゆく。痛いところを突いたのは、嘉宣にもよく判っていた。しかし、嘉宣も我慢の限界にきていた。何も真相など知らぬくせに、いきなり現れて橘乃を妖婦呼ばわりした上に、嘉宣をことごとく罵倒した。―この女は許せない。
「わ、私のことはこの際、どうでも良いッ。よろしいか、嘉宣どの。たとい三万石の小藩といえども、木檜氏は権現さまの御世から連綿と続いてきた由緒あるお家柄。その家の当主が正室も娶らず、身分の低き女子一人に溺れているとあっては武門の名折れにござりますぞ」
 春瑶院も相当に激しているのか、語尾が震えている。
 嘉宣は自分でも聞いたことがないほど、低い声で言った。そう、自分は知っている。怒れば怒るほど、怒りは精神(こころ)を研ぎ澄まさせ、少なくとも表に見せる顔は冷静になってゆくのだ。
「母上、念のために申し上げておきますが、橘乃はいずこの馬の骨とも知れぬ者ではございませぬ。父は稲木千造と申し、長年馬廻り役をあい務める忠義の者、稲木家は小禄にはござれど、父祖の代から当家に仕えてきた家であり、身許は確かです」
「何を申す。馬廻り役など、所詮は武士とは名ばかりの下級武士ではないか。そのような家の娘が生んだ子など、断じて世継とは認めませぬぞ」
 嘉宣は唇を噛みしめ、母を見据えた。
「哀れなお方だ」
「今、そなた、何と言いやった」
 春瑶院が柳眉を顰める。
 嘉宣は嘲笑うように言った。
「母上はつくづくお気の毒なお方だと申し上げました。母上は何かあれば、すぐに身分、身分と仰せになる。さりながら、その気位の高さゆえに、父上のお心が母上から離れていった最大の原因だとは気付いてはおられぬ。出石十万石の出自を鼻にかけ、事ある毎に当家を侮った物言いをなされた。母上は、その報いをお受けになったのです。私は、今なら判る。父上が何故、母上の許を訪れようとせず、他の女人たちの許へ通い続けたのか、父上のお気持ちが判るのです」
 パシッ。乾いた音が鳴った。
 春瑶院は怒りと屈辱に身を震わせながら、息子であるはずの男を眺めた。
 母に生まれて初めて頬を打たれた息子は、まるで打たれたことなどなかったように平然と端座している。
―これが、私の子、私が産んだ息子?
 春瑶院の眼に、一人の男の貌が甦る。
 端整な面立ちの貴公子、文武両道に秀でた美丈夫。初めて見たときから、若かった彼女はその男に夢中になった。
 彼女の良人となったその男は、生涯、彼女に微笑みかけることはなかった。
 自分の何がいけないのだろう。
 若かった彼女は、ひたすら良人の訪れを待った。だが、良人が共に夜を過ごすのは大勢の側室のうちの誰かであり、けして彼女ではなかった。
 それでも彼女の実家の出石藩を慮ってか、良人はごく稀には彼女を褥に呼んだ。そんなわずかな交わりの中で、三人もの子の母となったのは幸運というか奇蹟というしかない。
 この醜い容貌が気に入られないのかと、装いにも工夫を凝らし、化粧も美しくして身を飾った。が、彼女の努力はすべて空しいものに終わった。
 この息子は、あの男にそっくりだ。整った顔立ちも冷たく彼女を見据える凍てついた瞳も、何から何まで憎らしいほど似ている。
 私は、この子を見る度、腹立たしい想いに苛まれてきた。まるで道端の石ころのようにしか彼女を見ようとしない良人の面影がちらついて、この子を見ていると、言い様のない苛立ちと怒りに襲われた。
 だから、私はこの子を遠ざけたのだ。
 若い頃、何度も思ったものだった。もし、仮にこの子が父親ではなく、自分に似ていたら、自分はもっとこの子を可愛がり、母としての情を注いだだろう。
 この子は、あまりにも父親に似すぎている。上の姉姫と下の妹姫は母である自分に似ているのに、どうして、この息子だけがあの憎らしい男に似たのだろう。
 悪いのは自分ではない。母ではなく父に生き写しの容貌を持って生まれたこの子が悪いのだ。すべては、この子自身が招いた不幸。
 彼女は常にそうやって言い訳しながら過ごしてきた。息子のことだけではない。彼女にとっては、すべてが自分中心に回っており、何か不幸が起きれば、それはいついかなるときも彼女が悪いのではなく、他の彼女以外のものが原因なのだ。
 そうやって自らを省みることなく過ごしてきて、彼女はこの歳になった。
―その気位の高さゆえに、父上のお心が母上から離れていった最大の原因だとは気付いてはおられぬ。
 四十二歳にして、息子から突如として突きつけられたこの侮辱を受け止めきれるだけのゆとりは彼女にはなかった。
「よくも、母に向かって、そのようなことが言えたものですね。もう、好きにするが良い。そなたがあくまでも母の忠言を聞き入れず、橘乃なる妖婦を側に置くと申すのなら、私にも考えがある」
 春瑶院がスと立ち上がった。
 打掛の裾を捌き、踵を返そうとするその背に、嘉宣は問いかけた。
「また、橘乃を腹の子ごと殺めようとなさると仰るか」
 その問いに対していらえはなかった。
 静かに襖が閉まり、春瑶院の姿が消える。
 よもや、その日が母と息子のこの世での今生の名残になるとは当事者の二人さえ思わなかっただろう。

 ゴォーン、一つ鐘の音が響く度に、不思議な感慨に囚われる。除夜の鐘を百八ツつくのは、人間の煩悩がその数だけあるからだという。鐘を一つつく毎に、その罪業が浄められてゆき、百八回の鐘をつき終えたその時、その年の罪がすべて消滅し、新しい自分に生まれ変わって新たな年を迎えられるのだとか。
 どこで聞いた話かは判らないけれど、確か、そんなような話を聞いたことがある。