小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

妖婦と呼ばれた女~哀しき恋歌~(中編)

INDEX|8ページ/8ページ|

前のページ
 

「木檜家には権現さまの時代を更に遡ること昔から、このような忍びの者を飼っている。彼等は時に密偵ともなり、他国へ侵入することもあれば、暗殺を任務として遂行することもある」
「つまり、それは将軍家のお抱えになる伊賀者、甲賀者―お庭番と同等の役目を果たすものだと?」
「流石は橘乃だな。頭の回転も知識も並ではない」
 橘乃も影の存在は耳にしたことはあった。真の名も明かさず、一生を影のごとく生き、また影のように消えて終わるのだと、そのような者が実在するのだと、父が語ったことがあったのだ。
 そして、それは木檜藩だけでなく、他の諸藩も同様で、各々が密偵となり得る忍びの者を持っているのだとも。その呼び方はそれぞれ異なるが、木檜藩では〝影〟と呼ばれているという。
 ちなみに、影と呼ばれるのは藩主公認の忍びだけで、他の―例えば重臣が私的に雇っている忍びなどは、厳密にいえば影とはいわない。
「この者、名を時雨(しぐれ)という。まだ若いが、なかなかの手練れよ。この時雨を下屋敷に遣わそうと思う」
 嘉宣は、まるで明日の天気の話をするような口ぶりで言った。
「やり方は、そなたに任せる。ただし、絶対に予が放った忍びだと気付かれてはならぬ。あちらにも忍びはいるはずだ。良いか、心してゆけ」
 最後に一転して凄みのある口調で言うと、時雨と呼ばれた影は、深く頭を垂れた。
 と、一陣の風が巻き起こり、椿の梢がざわめいた。影は一瞬にして、風と共に消え果てた。いつ、どのようにして姿を消したのかも判らないほど鮮やかな消え方だ。
 真紅の花をたわわにつけた花が、夜陰にほのかに浮かび上がっている。闇に溶けた花は黒々として、あたかも人の血を彷彿とさせた。
―何と不吉な。
 先ほどの影といい、闇夜に浮かび上がる無数の椿といい、何故か心の奥が妖しくざわめく。
 これは吉兆、それとも凶兆?
 橘乃が自らに問いかけたその時、嘉宣が小さな吐息をつくのを橘乃は見逃さなかった。
 ああ、この男(ひと)はまだ心のどこかで迷っているのだ。
 橘乃は嘉宣の今の心の揺れが手に取るように判った。迷って当然だ。幾ら冷淡だったとはいえ、自分の母を誅せと命じたのだから。
 むしろ、橘乃が愛したのは嘉宣のそのような心の弱さ―優しさゆえだろう。実の母親を殺そうとする時、迷いや躊躇いの一つも見せずにあっさりとやり遂げるような男であれば、恐らく橘乃は嘉宣に心惹かれはしなかった。
 障子戸の隙間から流れ込む夜気は真冬を感じさせる。
「本当によろしいのですね」
 嘉宣と同じく影の消えた闇を見ていた橘乃が言った。
「何を今更。それに俺が今になって止めろと止め立て致したところで、そなたが気を変えるとでも?」
「フ」
 橘乃の花のような唇から吐息と共にかすかな笑い声が零れ落ち、闇に溶ける。
 そう、何を躊躇うことがあるの?
 自分の身は、愛しい者たちの身は自分で守らなければ。
 最初は正直、焦った。幾ら暗殺を唆しても、嘉宣はなかなかその気にならかった。その迷いに、橘乃は、嘉宣の母親に対する相反する感情が隠れていると見た。迷いは即ち、嘉宣の母への愛情だ。
 だが、半月ほど前、春瑶院が突如として上屋敷を訪問して後、嘉宣の態度が一転した。
 画策したわけでもないのに、馬鹿な女は自分の方からのこのことやって来た。そのお陰で、渋っていた嘉宣がとうとうその気になってくれたのだ。
 二人の間に何があったのかなど、知りたくもないし、知る気もない。大方は、長年、確執を続けてきた母子の間に決定的な亀裂を生じさせる出来事が起こったに相違ない。
 それは、橘乃にとっては好都合であった。
 嘉宣がこれまでの躊躇いをすべてきれいに捨て去り、橘乃の囁いた毒の言葉を忠実に再現し始めたのだ。
 これで良い。これで良いのだ。
 橘乃は嘉宣だけでなく、自分にも言い聞かせる。
 あの女を殺して、今度は私がこの(木)国(檜)の母となる。
 椿の紅を思わせる橘乃の艶やかな唇が笑みの形を象る。
 ふと、椿の樹が植わった繁みの向こうで小さな物音が聞こえた。
 傍らの嘉宣が鋭い一瞥をくれる。
「何者ッ」
 誰何の声を投げたが、当然ながら、応えは返らなかった。
「風の音にございましょう」
 嘉宣の波立つ心を鎮めるように言ってみる。或いは時雨という影が再び舞い戻ってきたのかと思ったけれど、そのようなことがあるはずもなかった。
 ニィー、か細い声と次いで小さな鈴の音がが聞こえてきて、再び椿がかすかな音を立てて揺れる。
「何じゃ、猫か」
 嘉宣の緊張がふっと緩んだ。
 黒々とした闇は彼方まで無限に続いてゆくように見える。ふいにその果てない闇に身体ごとすっぽりと呑み込まれるような錯覚に囚われ、橘乃は小さく首を振る。
 今は怖じ気づいてなどいる場合ではない。
 橘乃は嘉宣に寄り添うようにして佇み、闇に沈む紅椿をいつまでも眺めていた。