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妖婦と呼ばれた女~哀しき恋歌~(中編)

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 愛されて育った者に、愛されなかった者の気持ちが判らないのは至極当然のことだ。
 嘉宣はひそかに遣いを立て、下屋敷に遣わした。
―今後、橘の方に手出しは無用。
 ただひと言、そう告げるように命じた。春瑶院は愚かな女性ではない。それだけで、今後、橘乃に手を出せば、嘉宣がどう出るか判らないと言外にほのめかしていることに気付くはずだ。
 それで十分だと思った。
 第一、春瑶院から贈られた薬だとわざわざ断った上での今回の事件は、端からこちらに警戒心を抱かせるものであった。これが日々の食事に混入していたりすれば、橘乃は知らぬ中に毒を食(は)んでいたかもしれないが、明らかに嘉宣に敵意を抱いている春瑶院からと言えば、橘乃は薬を飲まない可能性の方が大きい。
 春瑶院がそんなことを見抜けないはずはない。つまり、今回の一件は最初から未遂に終わるのを見越した上で仕組まれたものだ。とはいえ、実際に毒薬を贈って寄越したのだから、単なる脅しや悪戯にしては悪質すぎるといえば、いえるだろう。
 単なる脅しならば、警告する程度で十分だ。嘉宣はそう思ったのである。が。
 事態は思わぬ方向に動くことになった。

 その日、木檜藩上屋敷に思わぬ訪問者があった。既に師走も半ばを迎えており、奥庭の椿が艶やかな真紅の花をたわわにつけている。
 折しもその日は昼過ぎから雪が降り始めた。今年、江戸に初めて降る初雪だった。
 舞い散る雪の中、豪奢な女駕籠が木檜藩邸に横付けされた。付き従う奥女中が恭しく引き戸を開けると、中から降り立ったのは紫の被布姿の女人であった。
 表で政務を執っていた嘉宣は、春瑶院の来駕を告げられ、茫然とした。
 あの母がわざわざこの雪の中を訪ねてくるなど、考えられないことだ。それこそ、紅い雪が降るだろう。
 それでも、嘉宣はどこか浮き浮きした気持ちになるのは否めなかった。良い歳をしてと我ながら滑稽にも思えるが、幼い頃から常に遠い存在であった母に逢えるのはやはり嬉しいのだ。
 対面は来客用の座敷で行われた。母を待たせてはならぬと政務も途中で放り出し、嘉宣は勇んでやってきた。
 むろん、表情に出すのはあまりにも情けないので、極めて冷静にふるまった―つもりだ。
 だが、春瑶院は嘉宣の沸き立つ胸中など頓着する様子はまるでなかった。
「母上さまがわざわざお越し下されるとは、思いも掛けぬことにございます」
 親子とはいえ、今は嘉宣が藩主であり、木檜氏当主である。従って、嘉宣が上座に座り、春瑶院はやや離れて下座に位置する。
「こうして逢いにこねば、あなたの方からはおいでになりませぬゆえのう」
 と、早くも嫌味で返されたが、嘉宣はぐっと己れを押さえた。
「本日は殊の外の寒さにて、雪まで降り出しまして、さぞ難儀なさったことでありましょう。お風邪など召されませぬように」
 久方ぶりに見る春瑶院は相変わらずだった。落飾してご後室姿になったのに、不自然なほど白粉を塗りたくり、まるで化粧お化けのようだ。立場や歳を考えて、もう少し地味な作りにした方がいっそ爽やかで良いのにと、嘉宣は母の笹紅が毒々しい唇を眺めた。
 この前、母に逢ったのはいつのことだったか。もう思い出せないほど昔のような気がする。
 今、眼前に取り澄まして座っている母は、記憶にある母といささかの変わりもない。つんとして、取りつく島もない。もっとも、嘉宣が藩主となった今は、彼が子どものときのようにあからさまな憎悪を込めた眼で見据えることはないが。
「折角、おいでになったのですゆえ、今日はゆるりとお過ごし下さいませ。何なら、お泊まりになってゆかれると良い」
 嘉宣は何とか母の気を引こうと必死だった。
 しかし、春瑶院には久しぶりに再会した息子と愉しく語らうつもりなど、さらさらないらしい。コホンと小さな咳払いをすると、上目遣いに嘉宣を見上げた。
「ところで、殿には随分と羽目を外されておるようですね」
 掬い上げるようなまなざしで見据えられ、嫌な眼だと嘉宣は内心、悪態をつきたい気分になった。
 が、そこは大人、穏やかに応える。
「はて、羽目を外すとは、異なことを仰せになられる。一体、何がお気に入らぬと仰るのでしょう」
「まぁ、お惚(とぼ)けになられるのですか。ご自分のお心によくよく問いかけてご覧なさいませ」
「母上」
 とうとう嘉宣はたまりかねて声を高くした。
「いきなり現れて、持って回ったような言い形ばかりなさるのはお止め下さいませ。仰りたいことがおありならば、とうぞ腹蔵なくお聞かせ下され」
「殿がそう仰せであれば、斟酌なく申し上げましょう。単刀直入に申し上げます。橘乃という女子、直ちにお側から遠ざけられませ」
 予期せぬ言葉に、嘉宣はカッと身の内が熱くなる。
「はて、それは、いかなるご了見にてにございましょうや。私の見るところ、橘乃には何の落ち度もございませぬ。それを、何ゆえ、遠ざけろと?」
 春瑶院は、毒々しいほど紅い唇を歪めた。
「そこまで、この母に言わせるおつもりか。あの橘乃なる女子、聞けば、稀代の妖婦と申すではありませぬか。下級藩士の娘の分際で殿のご寵愛を良いことに、奥向きで好き放題のし放題だと専らの噂にございますよ。あまつさえ、殿は橘乃の色香に溺れ、政務を放り出し、一日中、橘乃と寝所で淫らな行いに耽っておると下屋敷の方まで聞こえて参ります」
「それは」
 嘉宣が口ごもると、春瑶院は勝ち誇ったように笑みを刻む。
 次の瞬間、嘉宣は揃えた両膝の上の拳をグッと握りしめた。
「それは確かに言い訳のしようもござらぬ。橘乃を召し上げた当座は、情けなきことなれど、そのようなこともありました。されど、すべては昔のことにて、現在は私も心を入れ替え、以前にも増して政務に励んでおりまする」
「はて、そのお覚悟はご立派とお褒め申し上げたいのは山々にはございますが、いつまで続くものやら」
 春瑶院が馬鹿にしたように言う。
 嘉宣は爆発しそうになるのを懸命に堪(こら)える。ここ怒りのままに感情を出しては、大変なことになる。
 嘉宣は感情を殺した低い声で言った。
「母上は、それでは私がその場限りの言い逃れを申しているとでも?」
「そのようなことは申してはおりませぬ。ただ橘乃なる女子、お側に置かれても何の益なきどころか、かえって殿に仇なす存在となりましょう。それゆえ、母として殿の御身とおんゆく末を心配して、このように申しておるのです」
 嘉宣の声に流石に剣呑さを感じ取ったのか、春瑶院の声がわずかにやわらかくなった。
―何が母として心配してだ、この女狐め。
 嘉宣は今すぐにでもこの女の胸倉を掴み、部屋から引きずり出してやりたい衝動を懸命に堪えた。
「そのようなご心配は無用にございます。母上も既にご承知のとおり、私もついに明年には父親となりまする。人の親となるからには、いっそう身を慎み、範となるべきよう努めて参りたいと存じておりますゆえ」
「まさか、殿はあの橘乃なる女の生んだ子に家督を継がせるおつもりにございましょうや」
 春瑶院の声が戦慄く。
 嘉宣は更に握りしめた拳に力を込めた。