小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

妖婦と呼ばれた女~哀しき恋歌~(中編)

INDEX|4ページ/8ページ|

次のページ前のページ
 

 嵐のようなひとときが過ぎ去った後、嘉宣は橘乃の傍らに身を横たえた。橘乃は腹這いになり、嘉宣の胸に顔を近付ける。
 気配を察した嘉宣が橘乃の身体を引き寄せた。
「殿、いつか私に仰ったことをまだ憶えておいでにございますか?」
「―一体、何のことだ」
 嘉宣が橘乃の艶やかな黒髪を手で弄んでいる。橘乃はいっそう嘉宣の方に身を寄せた。
「何か叶えて欲しい望みがあるかと仰せになりました」
「おお、憶えているぞ。何と申しても、そなたは何も要らぬの一点張りであった。しまいには、庭の女郎花を摘んでも良いかと申して参ったな」
 嘉宣の口調はまるで、過ぎ去ったはるかな昔を懐かしむかのようだ。実際には、あのやりとりを交わしたのは、ついひと月ほど前のことなのに、彼にとっては随分と過去のように思えるのだろうか。
「あのお約束、まだ申し上げてもよろしいのでございましょうか」
 控えめに言った橘乃に、嘉宣は含み笑いで応えた。
「なに、今頃、願いを思いついたというのか」
「はい」
「うむ。構わぬ、何なりと申してみよ」
「私は、我が子がみすみす不幸になるのは見たくはござりませぬ。ゆえに、我が子には必ず殿のお跡目を継がせて頂けると約束して頂きたいのでございます」
 橘乃の言葉に、嘉宣は意外そうにまたたきした。
「そなたの口から、そのような俗な言葉が出るとは思わなかったな」
「このようなことを申す女は興醒めにございますか?」
 短い間があった。
「いや」
 嘉宣は緩く首を振り、橘乃の背に回した手をそっと放した。
「したが、そなたが生む子は、紛れもなく俺の子、男子であらば放っておいても、俺の跡を継ぐべき世継となろう」
 嘉宣は何を考えているのか、手枕をして天井を眺めている。
 その感情の窺えぬ瞳を見つめ、橘乃は嘉宣の胸に頬を押し当てる。
「さようでございましょうか。少なくとも私もつい最近まではそのように思うておりましたれど、つい不安になってしまうのでございます。このままでは私たちの子が家督を得るどころか、生命さえ失ってしまうのではないかと」
「―そのようなことがあるはずもなかろう」
 返ってきた嘉宣の声は心もち低かった。
「本当にそう言い切れるのであればよろしいのでございますが」
「そなた、何が言いたい?」
 嘉宣が身を起こすと、自然、橘乃は離された形になる。と、橘乃が両手で顔を覆った。
「殿、殿ご自身が何よりご存じでいらっしゃいましょう。私たちの大切な吾子の生命を狙う者がそもどこの誰かを」
 橘乃の声が戦慄(わなな)く。
「橘乃、泣いているのか?」
 嘉宣の声に狼狽が混じった。
「いいえ、橘乃は泣いたりなど致してはおりませぬ」
 そう言いながらも、華奢な身体を小刻みに震わせた。
「ただ、私は産まれてくる吾子が不憫でなりませぬ。この世の光を見る前から生命を脅かされるなど、あってはならぬことにございませぬか、殿」
「そうじゃの、橘乃。そなたの申すとおりだ。罪なき嬰児(みどりご)の生命を狙うなど、神仏をも怖れぬ許されぬ所業だ」
 嘉宣が幾度も頷く。橘乃はますます声を震わせ、涙ながらに訴えた。
「橘乃は日々、不安でなりませぬ。いつまた吾子の生命が狙われるかと考えただけで、生きている心地が致しませぬ。昼間、浅い眠りに落ちても、悪夢を見てうなされる始末。このままでは腹の子の成長にも障りましょう。どうか殿、お願いでございます。この不安を取り除いて、私を悪しき夢からお救い下りませ」
 身を揉んですすり泣くその様は、さながら一輪の花が雨に打たれて、萎れているようだ。
 その姿が嘉宣の心を動かしたのは間違いなかった。
「判った、判った。それほどに怖いと申すのなら、何とかせねばなるまい。して、そなたの気が済むようにしてやるには、具体的には何をすれば良いのだ?」
 嘉宣が橘乃の髪を宥めるように優しく手で梳く。橘乃がふっと泣き止んだ。
「本当に申し上げてもよろしいのでしょうか」
「ああ、構わぬ」
「それでは、お言葉に甘えて申し上げます。吾子の生命を脅かす可能性があるものはすべて取り除いて頂きたいのです」
 しばらく水を打ったような静寂が当たりを包み込んだ。
「―母上のことか」
 唐突にその沈黙が破られても、橘乃は身じろぎ一つしなかった。ただ漆黒の艶めく瞳を嘉宣に向けているだけだ。薄い闇の中で、橘乃の黒い瞳が猫の眼のように煌々と輝いていた。
 濡れたような漆黒の闇を彷彿とさせる瞳に、策略家の鋭い企みの光がかいま見える。しかし、嘉宣が橘乃の瞳の奥で一瞬またたいた妖しい光に気付くことはついになかった。
「ご自分の感情だけで血の繋がったお子だけではなく、孫までをも亡き者とされる怖ろしきお方―。放っておいては、いずれ吾子だけではなく、あなたさまご自身の御身も危うくなりましょう」
 その時、行灯の明かりがフッと消えた。
 途端に室内が闇で満たされる。
 橘乃の手がそろりと伸び、嘉宣の頬にかすかに触れた。
「その前に―怖ろしい事態になる前に、こちらから仕掛ければ良いのです」
 夜の闇に沈む小さな声で、橘乃は囁いた。
 空は曇っていたようだが、月が出たのか、細い月光が障子戸を通して部屋にまで差し込んでくる。
「消さねば、私たちが消される。あの方の怖ろしさを私がまだ知らぬと仰せになったのは、他ならぬあなたさまではごさいませぬか」
 橘乃が嘉宣の耳に毒の言葉を流し込む。月明かりに何とも魅惑的な微笑が浮かびあがっている。
 濡れたように光る双眸がひどく扇情的に見えた。口づけを誘うようにあえかに息づく唇がひときわ艶めいている。
 一糸纏わぬ姿の橘乃が妖艶に微笑んでいた。まろやかな乳房、恥じらうように尖った淡い桜色の乳首、腰から尻にかけてのなだらかな曲線、さして彼を魅了してやまない淡い繁みに隠された秘められた狭間。
 橘乃を形づくるすべての箇所が、今もいや、以前よりいっそう彼を虜にし、溺れさせる。
 嘉宣は情動に耐えかね、橘乃をそのまま褥に押し倒し、覆い被さった。
「母上さまさえ、この世から消えておしまいになれば、私たちの子が―私と殿の間に生まれる子がお家を継ぐ跡取りとなることができるのです」
 橘乃が嘉宣の耳許でもう一度、囁いた。生温かい吐息が嘉宣の耳朶をくすぐる。
 橘乃が好んでいつも焚きしめる香のかおりが彼を包み込み、その香りを深く吸い込んだ瞬間、くらりと酒に酔ったような酩酊感が襲った。
「どうか、殿。私と腹の吾子を安心させて下さりませ」
 この蠱惑的な声は、嘉宣の脳髄を痺れさせる。嘉宣は獣のように荒い息を吐き、低い唸り声を上げながら、夢中で橘乃の身体を貪った。

 しかしながら、橘乃にああ言われてみたものの、嘉宣はこの時、本気で母春瑶院を手に掛けるつもりは毛頭なかった。確かに春瑶院は底が知れぬ怖ろしい女ではあるが、それでも母親は母親であった。
 いや、幼時から虐げられ、無視されてきたからこそ、嘉宣は母を求め、その愛に飢えていた。その愛の裏返しとして母に憎しみを抱いていたのだとしても、だからといって、母を亡き者にしようなどと大それた行動に結びつくはずはなかった。
 そこに、橘乃の誤算があったといえよう。