妖婦と呼ばれた女~哀しき恋歌~(中編)
外は真冬で、今にも雪が降り出しそうな陰鬱な空模様である。だが、部屋の中には手焙りが置かれていて、温かさが保たれていた。
浪江は横幅も縦もあり、こんな冬でも少し動いただけで汗をかく。今も、常より更に額に汗をかいている。何とか橘乃に思いとどまらせようと必死なのだ。
「構わぬと言ったら構わぬ」
橘乃はそう言い放ち、枕許の湯呑みを取り上げた。次いで、粉薬の入った包みを手にする。
「お方さま!!」
浪江が悲鳴のような声を上げた。
そのときだった。四季折々の花を艶やかに描いた襖が音もなく開いた。
「どうした、随分とここは騒々しいな」
嘉宣が明るい声音で言いながら入ってくる。
「と、殿ォ」
浪江がまろぶようにして嘉宣に駆け寄った。
「どうしたのだ、外は雪でも降りそうだというのに、汗をかいているぞ?」
揶揄するように言った嘉宣に、浪江は縋るようなまなざしを向けた。
「どうか、お方さまをお止め下さりませ」
「何だ、一体何があったというんだ」
嘉宣が橘乃を振り返る。橘乃は今しも粉薬の包みを解こうとしているところだった。
「春瑶院さまよりお方さまに今朝方、お薬が届いたのでございます。何でも悪阻に効くお薬だとかで」
浪江が泣き出しそうな顔で訴える。
「妙だな。何故、母上が橘乃の懐妊を知っている」
嘉宣も危機感を察知したらしい。
「私もそのことを不思議に思うておったところにございます」
「橘乃、その薬を寄越せ」
嘉宣が手を差し出しても、橘乃は渡そうとはしない。いつも従順で嘉宣の意に逆らったことのない橘乃にしては珍しいことだ。
「いいえ、私は春瑶院さまのお心をお疑いするような真似は致したくございませぬ」
橘乃が毅然として言うのに、嘉宣が固い表情で言った。
「そなたは、まだ母上の怖ろしさを知らぬ」
嘉宣は呟くように言うと、橘乃にもう一度言った。
「良いから、その薬を渡すんだ」
まるで幼い子に言い聞かせるような口調にも、橘乃は烈しくかぶりを振った。
「殿、殿がまずお母上さまをお信じなさらねば、お母上とのおん仲が上手くゆくはずがございませぬ。血を分けた実の母と子が互いに憎み合うのは、あまりに哀しいことではございませぬか」
「そなたに何が判るというのだ? そなたに俺の気持ちがすべて判るとでもいうのか!? ふた親に慈しまれ可愛がられて温々と育ったお前に、俺の気持ちが判るのか」
嘉宣は烈しい形相で橘乃を睨みつけると、その手から粉薬を奪った。まるで狂人のように掴み取った薬を持って走ってゆく。
部屋の片隅にあるギヤマンの金魚鉢に近寄ると、薬の中身をざっと注いだ。
張りつめたような静寂がその場を包む。
浪江も橘乃も息をすることも忘れて、その金魚鉢を凝視していた。
「あっ」
先に声を上げたのは浪江だった。
普段から気丈で滅多と取り乱すことのない浪江が指さして震えている。
「お、お方さまッ。あれをご覧に」
橘乃もまた声を発することすらできなかった。
金魚鉢の中でたった今まで優雅にひらひらと泳いでいた金魚は赤瑪瑙を思わせた。それらの金魚たちが無惨にも皆、白い腹を見せて引っ繰り返っている。
「やはり、毒であったか」
嘉宣は当然の結果だと言わんばかりに呟いた。後はもう、金魚鉢を振り返りもしなかった。
「これでもまだ、そなたは母上を信じろなどと綺麗事を申せるのか」
抑揚のない声は、何の感情も宿してはいない。その声はあたかも橘乃が嘉宣と初めて出逢った日を思い起こさせた。酷く傷ついた瞳は拭いがたい孤独の影を宿していて―。そんな眼をした男に、橘乃はたった一瞬で魅せられてしまったのだ。
橘乃が嘉宣の側にいるようになってから、嘉宣は随分と明るくなった。時折、表情を翳らせることはあっても、以前のように側で見ている者が胸塞がれる想いになるほど昏い眼をすることはない。
「大方、母上の放った間諜がこの上屋敷に紛れ込んでいるのであろう」
嘉宣の思惑も橘乃と同じようだ。
と、橘乃はふいに強い力で抱き寄せられた。
「橘乃、そなたが無事で良かった」
嘉宣の声が震えている。
「そなたにもしものことがあれば、俺は生きてはおられぬ。―いや、死ぬる前に、あの女を殺してから死んでやる」
「殿―。どうかお心をお鎮めになって下さりませ。橘乃はこうして無事でおりまする。それゆえ、どうか今回のことは無かったものと思し召しあそばしませ」
橘乃の取りなしにも、嘉宣はますます苛立ちを募らせるばかりだ。
「これで、そなたも判ったであろう。あの女に情けなど無用。―それにしても、まさか母上が橘乃まで狙うとは思うてもみなんだ。橘乃の腹に宿りし子は、母上の孫ではないか。母上はこの俺だけでなく、俺の血を引く子までをも憎むおつもりか」
言葉の語尾には、やるせなさと憤りがよく表れていた。
「殿、何かの間違いやもしれませぬ。別の者が途中で薬をすり替えたとも考えられまする。どうか、あまりお悩みあそばされませぬよう」
それが気休めにすぎないことは、橘乃にもよく判っていた。だが、傷つき、血の涙を流している男を前にして、真実を殊更突きつけることはできなかった。
橘乃は、春瑶院が本気なのだとこの時、思い知らされた。嘉宣が何故、橘乃の懐妊を公表しなかったのかも納得できた。春瑶院が橘乃の懐妊を知れば、間違いなく橘乃を亡き者にしようとするに違いないと、嘉宣は初めから予測していたのだ。そして、図らずもその危惧は的中した。
この事態を予測していながら、いざ現実となった今、いちばん衝撃を受けているのは嘉宣自身だろう。彼の胸中を思うと、橘乃は我が事のように辛かった。
嘉宣を傷つける者は、たとえそれが誰であろうが許せない。ましてや、春瑶院は橘乃と嘉宣の子まで殺そうとしたのだ。何の罪もない、この世に生まれ出ようとしている小さな生命を闇に葬り去ろうとした。
嘉宣から春瑶院との不仲を聞かされたのは、まだ嘉宣の側室となってまもない頃のことだ。あの折、嘉宣がいかに母の愛情を欲しているかを知り、我が子を愛そうとしない春瑶院にかすかな憎しみすら憶えたものだった。
だが、あのときの怒りなど、今のこの胸に燃え盛る怒りに比べれば、何ほどのこともない。
憎い、私は春瑶院さまが憎い!!
橘乃は生まれて初めて心から他人を憎んだ。たとえ、この身は八つ裂きにされても構いはしない。でも、大切な、この世で最も大切なものを傷つけるのだけは絶対に許せない。橘乃にはもう、大切な守るべき存在ができたのだ。愛する良人と惚れ抜いた男との間に授かった愛しい子。その大切なものを守るためには、自分は鬼にもなろう、悪魔に魂を売り渡しもしよう。
橘乃の中で、ある決意が決まった瞬間だった。
【参】
静まり返った閨の中は深い湖の底を思わせる。白羽二重の褥の上で烈しく身体を絡ませ合う男女の姿があった。
男の指先が女の肌理細やかな膚を這う度に、女の身体が桜色にほんのりと染まってゆく。熱い唇が、舌がふくよかな胸の頂きを円を描くように舐め、きつく吸い上げる。橘乃は固く眼を瞑って、押し寄せる快楽の波に身を任せていた。
作品名:妖婦と呼ばれた女~哀しき恋歌~(中編) 作家名:東 めぐみ