妖婦と呼ばれた女~哀しき恋歌~(中編)
ところが、この琴路、橘乃が側室となってからというもの、とんと夜伽のお召しもなく、打ち捨てられた状態となっている。殿の愛を奪った橘乃を憎んで、夜毎、呪詛を続けているとか物騒な噂が流れている有り様だ。
果たして、噂の真偽は定かではないが、廊下の向こうから取り巻きたちに囲まれてやってくる一団の中心にいるのは、確かにその琴路である。
橘乃は咄嗟にその場に立ち止まった。だが、背後の年嵩の侍女が耳打ちをする。
―お方さま、どうぞ構わずお進みなされませ。あちらは、同じご側室とはいえ、とうに殿のご寵愛を失うて久しいお方、今、時めくお方さまの足下にも及びませぬ。ここは、お方さまがお先にお通りあそばすのが筋というものにございましょう。
しかし、橘乃は躊躇った。側室という立場ではあっても、橘乃にせよ、琴路にせよ、まだ御子をなしたわけではない。いわば、お手つきの腰元というだけで、正式な側室として認められるのは殿の御子をあげてからの話なのだ。
同じ立場なのであれば、当然、先に寵愛を受けていた琴路の方が格上だろう。やはり、新参者の自分が先輩に道を譲るべきだと判断した。現に、琴路一行は止まる気配も見せず、こちらへ向かっている。
ところが、である。橘乃の傍らにいた年嵩の侍女が声を張り上げた。
―お待ちなされませ。こちらは、殿のご側室橘の御方にございます。まずは、お方さまを先にお通しするのが礼儀というものではございませぬか。
侍女の声音には明らかに咎めるような響きがあった。
―何をたわけたことを仰せになられます。こちらのお方をどなたと心得る。琴路さまにございますぞ。同じご側室同士ならば、先にお側に上がった琴路さまこそ、先にお通しするべきにございましょう。
琴路に付き従っていた侍女も声を荒げる。
まだ何か言おうとする侍女に橘乃は耳打ちした。
―もう、良い。ここは穏便に済ましましょう。
しかし、年嵩の侍女は一歩前に進み出た。
―さあ、どうかお控えなされませい。
恰幅のある侍女が両手をひろげて仁王立ちになっただけで、かなりの威圧感がある。それでもまだ果敢に立ち向かってこようとした琴路側の侍女を、橘乃の侍女が軽く押した。その拍子に、相手の侍女は後方に飛び、したたか腰を打ちつけた。
―何と酷いことをしやる。何の罪もない者にかような乱暴なふるまいをするとは。
琴路は細い眉を顰めた。
すべては一瞬のことで、橘乃には止めるすべもなかった。かといって、侍女の暴走を止められなかった咎は、自分にある。
―申し訳もござりませぬ。
唇を噛みしめ、うなだれる橘乃の前で、琴路は大袈裟に騒ぎ立てた。ほどなく突き飛ばされた侍女は他の者たちに抱えられて連れてゆかれ、琴路もまたその者たちと共に去った。
―ご寵愛を傘に着ての我が物顔のその態度! いつか仏罰が下りましょうぞ。
去り際、琴路が叩きつけた科白は橘乃の胸を抉った。琴路の橘乃に向けられた眼は、憎悪に燃えていた。橘乃でさえ、自分を呪詛しているという噂が真ではないのかと危うく信じてしまいそうになったほどであった。
橘乃は年嵩の浪江(なみえ)という侍女を厳しく
その夜は浪江の進言に従い、嘉宣にはお褥辞退を願い出た。気分優れずと訴える橘乃に、嘉宣からは〝十分養生するように〟と優しい文が届けられた。
その翌日、木檜家お抱えの奥医師が呼ばれ、橘乃の診察に当たった結果、妊娠三ヵ月との診立てが告げられた。橘乃の懐妊はまだ公表はされず、その事実を知るのは当人の橘乃、更には嘉宣、他には信頼のおける者に限られた。
橘乃から懐妊を告げられた嘉宣は、浪江に負けず劣らず驚喜した。〝ご生誕は来年の六月〟と聞いた嘉宣は橘乃を抱きかかえ、部屋中を回りながら幾度も繰り返した。
「俺もとうとう人並みに父親になるからには、もっとしっかり致さねばな」
大好きな男が歓べば、橘乃も嬉しい。しかも、この身には心から愛する男の子が宿っている。嘉宣と橘乃の愛し合った証、二人がめぐり逢ったという確かな証。生まれてから、これほど幸せだと感じたことはなかった。
橘乃の懐妊が当面の間、伏せられたのには相応の理由があった。その嘉宣の判断が正しかったことを、橘乃はほどなく思い知らされることになる。
年も押し詰まった師走の初め、橘乃の許に思いがけぬ人から届け物があった。
その朝、床に伏せっていた橘乃の枕許に浪江が薬を運んできた。
橘乃の悪阻はいまだに続いている。頑固な吐き気が彼女を悩まし続け、そのせいで、一日中伏せっていなければならない。浪江に言わせれば、妊娠初期の特徴の一つゆえ、安定期に入れば自然に治まるという。
―大丈夫でございますよ。あとひと月も経てば、直にお楽におなりあそばされますから。
浪江に言われると、まるで母親に諭されているようで、不思議と安心できた。
その浪江が今は困り切った様子で座っている。
「お方さま。このような物を春瑶院さまよりお届け頂いたのでございますが」
「春瑶院さまから?」
橘乃は愕きのあまり、床の上に身を起こした。春瑶院といえば、紛れもなく嘉宣の母なる人だが、橘乃とは面識はない。しかも、嘉宣を疎んじている母親であり、その人が一介の側室にすぎない自分に届け物をするとは俄には信じがたい。
「一体、何事でしょうね」
橘乃は込み上げてくる吐き気を堪え、首を傾げた。浪江が気を利かせて、打掛をそっと肩からかけてくれる。
「お薬だそうにございます」
浪江が言い、丸盆に載せた湯呑みと粉薬を差し示す。
「薬―」
呟く橘乃を、浪江が窺うように見る。
「実は、このお届け物と共に使者より口上がございまして、橘の御方にはどうやらめでたくご懐妊の由、悪阻にはよう効く薬ゆえ是非、お試し頂きたいと」
刹那、橘乃の顔から血の気が引いた。
「何ゆえ、春瑶院さまが私の懐妊をご存じなのであろう」
「それは、私にも計りかねまする。されど、この薬、いかがしたものにございましょう」
浪江はそちらの方が気がかりなようだ。
橘乃はしばらく思案顔だったが、やがて、小さな声ではっきりと言った。
「殿のお母上さまなれば、私にとってもお姑さま、お義母(はは)上さまに当たる方が折角下されたのじゃ。頂いたお薬を飲まぬわけにはゆかぬ」
「なりませぬ! お方さま。春瑶院さまがお方さまのご懐妊をご存じであったことも面妖といえば面妖」
確かに、浪江の言葉は道理だ。橘乃の懐妊は嘉宣によって固く箝口令がしかれていた。なのに、下屋敷に離れて暮らしている春瑶院が何故、知っているのか。応えはただ一つ、橘乃の周辺―この上屋敷に裏切り者がいるということだ。その者は恐らく上手く侍女か従者に紛れ込み、こちらの情報を逐一流しているに相違ない。
春瑶院の密偵が上屋敷にまんまと入り込んでいた―、その事実は橘乃と浪江を震撼とさせるに十分すぎた。
「さりながら、お義母上さまの下されたものを無下に扱うわけにはゆかぬ」
橘乃もこういった点は言い出したら、一歩も後へ引かない。
浪江は蒼白な顔で言った。
「それではせめて殿にひと言だけご報告申し上げて、それからお薬をお飲み下さいませ」
作品名:妖婦と呼ばれた女~哀しき恋歌~(中編) 作家名:東 めぐみ