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妖婦と呼ばれた女~哀しき恋歌~(中編)

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橘乃が嘉宣の側室となってから、五月(いつつき)。
 嘉宣の橘乃への寵愛はますます厚くなり、とどまるところを知らなかった。殿を色香で誑かす妖婦橘(たちばな)の御方(おんかた)の存在は今や、国許でも江戸表でも知らぬ者はない。
 橘乃はいつしか〝橘の御方〟と呼ばれるようになっていた。
 橘乃の居室は上屋敷の奥向きの一角に与えられている。控えの間、十畳余りある居間と続きになった寝室と三間続きになっている。控えの間というのは、橘乃に仕える侍女たちが詰める場所になる。
 橘乃の居室は今、障子戸をすべて開け放っている。濡れ縁越しに見渡せる庭は今、紅葉が盛りであった。赤だけでなく、黄金色に染まった小さな葉が地面に無数に散り敷いている。二本の樹が寄り添い合うようにして立っているその様は、どこか仲睦まじい夫婦(めおと)を彷彿とさせる。
 我が身も嘉宣の側に終生いることができたならと願わずにはおれなかった。視線を少し動かすと、片隅に女郎花が群れ固まって咲いている。華やかさはないが、その慎ましい佇まいが昔から橘乃は気に入っていた。
「何を見ていた?」
 唐突に頭上から声が降ってくる。
 橘乃は急速に現(うつつ)に引き戻された。
「紅葉を―見ておりました」
 正直に応える。ほどなく、嘉宣が傍らに座る気配があった。
「ホウ、紅葉か。確かに見事なものだな。まさに天人のなし給うた奇蹟としか言いようがない」
「天人のなし給うた奇蹟」
 橘乃は嘉宣の科白を反芻してみる。
「殿がそのようなことを仰(おつしや)るとは存じませんでした」
 どうしても笑みが零れてしまうのは止めようがない。
 嘉宣が憮然とした面持ちで言った。
「何だ、俺が歌もろくに読めず気の利いた科白一つ言えぬ男だと思うか? 俺はそこまで無粋ではないぞ? これでも歌くらい嗜んでいる」
 まるで子どもが得意技を披露するような顔で、胸を張っている。その様がおかしくて、橘乃はまたクスリと笑みを洩らす。
「その顔は、俺の話を信用しておらぬということだな。よし」
 嘉宣は眼を閉じた。
「前日も昨日も今日も見つれども 明日さえ見まく欲しき君かも」
 すらすらと口を突いて出てきたのは和歌だった。
「これでどうだ? 今の俺の想いを歌に託してみたのだが」
 橘乃が笑いながら応える。
「それは〝万葉集〟の橘文成の歌にございましょう?」
「何だ何だ、つまらぬ。そなたは存じておったか」
 ますますふて腐れる嘉宣に、橘乃は微笑んだ。
「殿、橘乃は嬉しうございます」
「はて、何が嬉しいのだ?」
 嘉宣は訝しげな顔だ。
「先ほどの歌にござります」
「歌? ああ万葉集のことか」
 事もなげに言う嘉宣に、橘乃は真顔で頷いた。
「殿はあの歌に今の殿のお気持ちを託したと仰せになられました。橘乃は、殿のそのお気持ちが嬉しいのでございます」
 あの歌は一昨日も昨日も今日も逢ったけれど、明日もまたあなたに逢いたい―、そういった意味だ。女に切ないほどの恋慕を抱く男の心が切々と伝わってくる。
 あの歌を嘉宣が自分に贈ってくれたと考えだけで、橘乃は涙が出そうになるほどの歓びを憶えた。
「そうか、他人の作った歌でそれほど歓ぶのなら、今度は是非、自分で作らねばならぬな。だが、生憎と俺はそういった風流心が欠片(かけら)ほどもないのだ。そなたのためなら、ない知恵を振り絞ってみるとするか」
 嘉宣が戯れ言めいて言う。
 橘乃はあまりの幸福に目眩がしそうだった。熱いものが瞼に込み上げてくる。
 長閑な昼下がりで、庭には晩秋の陽が差し込み、朱や黄に染まった紅葉が穏やかな陽光に照り映えている。女郎花の花がかすかな風にそっと揺れた。
「何を泣いている」
 嘉宣が橘乃の涙に愕いたように声を上げた。
「だって、あまりにも幸せで」
「かなわんな。女は哀しいときだけでなく、嬉しいときにも泣くのか。さりながら、何も泣くほどのこともなかろうに」
 呆れたように肩をすくめる嘉宣だった。
「いいえ、心からお慕いする方のお側にいられるのは、女にとってはいちばんの幸せにございます」
 橘乃は溢れようとする涙をそっと人さし指でぬぐう。
「たかだか和歌の一つを披露しただけで、そのように嬉しがるとは。そなたもつくづく欲のない女子だのう。そういえば、そなたには一度として何も与えたことはなかった。何か欲しいものはないか? この際だ、何でも欲しいものは申してみるが良い」
「いいえ、橘乃は何も欲しいものなどございませぬ。本当にただ殿のお側にいられれば良いのです」
「いや、それでは俺の気が済まぬ。何でも良い、欲しいものを申せ」
 これでは押し問答だ。橘乃は弱り果てた。
 その時、庭の片隅に咲く女郎花が視界に入った。
「女郎花を」
「女郎花?」
 嘉宣がわずかに小首を傾げる。
「はい、お庭に咲いております女郎花を一輪だけ下さりませ」
「何だ、そんなもので良いのか。構わぬぞ、一輪と言わず何本でも持ってゆくが良い」
 意外そうな表情の嘉宣に橘乃は首を振る。
「いいえ、一輪だけで良いのです。折角一生懸命に咲いているのに、途中で摘んでは可哀想ですから」
「なるほど」
 嘉宣は秋の陽に眩しげに眼を細めた。
「女郎花の花は、子どもの頃から大好きなのです。春に咲く牡丹のような華やかさはございませんが、いつも凜として咲いているところに心惹かれるのです」
 橘乃の生まれ育った長屋の裏手にも、秋になると女郎花が咲いた。ひっそりと目立たないのに、不思議な存在感のある花だと幼心にも強い関心と憧れを抱いていたものだ。
「そなたが女郎花を好き―」
 嘉宣の顔には、ありありと当惑が現れている。
 橘乃は婉然と微笑んだ。
「私が女郎花を好きだと申し上げたのがそのように意外でございますか? 私のように悪しき噂のある女子にこのような慎ましやかな花はふさわしからぬと思し召したのでございましょう」
「う、いや―」
 嘉宣は口ごもる。
―正直なお方。
 橘乃は心の中で呟く。十九歳という年齢よりもはるかに老成して見えるときもあるのに、こんな風に無防備で無邪気な顔を見せるときもある。
「殿がそのように思し召していたとしても、橘乃は別に愕きは致しませぬ。私のことを皆がどのように申しておるかくらい存じておりまする」
 橘乃の脳裡にある光景が鮮明に浮かび上がる。それは、数日前の出来事であった。橘乃が奥向きの廊下を歩いていたときのことだ。
 お付きの侍女数名を従えていた橘乃の眼に、向こうから静々と歩いてくる女が見えた。後ろに控える女たちにも相手の姿が見えたらしく、瞬時にさっと緊張が漲るのが橘乃にも判った。
―琴路さまにございますよ。
 すぐ後ろの若い侍女たちがひとひそと囁き合っている。
 琴路―元の名をお琴―は、橘乃が嘉宣の眼に止まる前に寵愛を受けていた女だった。何でも江戸でも指折りの大店の娘とかで、行儀見習いで御殿奉公に上がったところ、見事藩主のお手つきとなったらしい。
 色は白いが、眼は細くつり上がっていて、まるで狐面のような娘だ。たいして器量が良いわけでもないのに、何ゆえ、殿のお手が憑いたのかと当時、皆が首を傾げたものだった。