紗の心
コトッ。
もう私の手は、その人の手首を握りしめ、引き寄せた。
胸元にその人の体が舞い込む。
ふんわり軽やかに、といっても実際ではもちろんない。
そんな夢やスローな映像が作り出す幻想のような感覚である。
胸元のその人が、私を見上げる。
引き寄せたものの、一度は振り払ったその人に何をしようというのか。
「・・いいんだろうか。もう迷惑?」
「どうでしょうか」
抱きしめる。
その人の反応はどうだろうかと。
抱きしめる。
いや、他の行為を押さえ込むように自分を抑制する為に。
ぎゅっと抱きしめる。
きつく抱きしめるほどに、その人への気持ちが溢れ始めてしまう。
(まだこんなに好意を抱いているのか)と。
「紗希、やっぱり好きだよ」
「うん」
「好きだ」
「うん」
その人は、小さな声で頷くだけだ。
その人にくちづけた。
柔らかくしっとりとした唇。
いつまでも、重ねていたい。
その人もそれに合わせてくれている。求めている。
私は、その人を膝に抱いたまま、後ろに倒れた。
その人が、圧し掛かるように被さる。
離れるわけでもなく、体重を預け、私と唇を重ねる。
結った髪が、一筋外れて、私の頬にかかる。
それもまた、心地よく顔をくすぐる。
耳に掛け、戻してみるが、無駄なようだ。
着物の袖が鼻先にひらりと触る。
樟脳?いや香の香りのようだ。ほんのり馨(かぐわ)しい。
「脱がせたい」
その人は、上半身を起こし、私から離れた。
私も起き上がり、向い合わせに座わり直す。
鋭角に重なった衿元から覗く首筋を伝い、手を差し入れた。
柔らかく指先に触れた胸の膨らみ。
「紗希、私の事、怒らないのか?」
その人は、何も言わない。
「自分の都合を気にして、貴女を悲しませた」
少し、目を伏せたその人は、また私を見つめた。
「あ、ずいぶん前のことだが、玄関で背中に何か書いたことを覚えてる?」
「はい」
「何て?」
小さく横に首を振る。
「どうして?」
「忘れました」
「本当に?」
「はい」
「思い出して?」
首を傾げる。
「思い出せない」
私は、胸元から手を抜くと、紐をほどく。帯をとく。
羽織る着物と長襦袢と肌着だけが、その人を包んでいた。
(このまま・・)
「抱いて」
その人の言葉が耳から入り込んだ途端、私の意識とは別の何かが私を支配するかのように、
快感ともいえぬ感情まま、私はその人を求めてしまった。