紗の心
一旦は、机の前に座ってみたが、すぐに身の置き場をベッドに移した。
ベッドの背に枕を立てかけ凭れかかった。
やや先の天井を眺めて溜め息をついた。
疲れたわけではない。
見つめた天井の視線が揺れる。
頭の奥底から、記憶を引き出す。
もちろんあの人のことをだ。
面影や私に向けてくれた笑顔、声までも思い浮かべようとこめかみに力が入った。
ふと浮かんだその情景に思わず口元が緩んだ。
(加納 紗希さんか・・また会いたい。会いに行ってもいいだろうか?行ってもいいよ、たぶん・・)
深い息をゆっくり吐き出した。
先日の雨がそのときの始まりか、梅雨の頃を迎えた。
今日も朝から曇り空だ。
会社について間もなく、営業へと外出した。
その人の住む辺りにさしかかる。それだけで気になる。
(今日もお着物だろうか。先日は何処へ行っていたのかな。買い物くらい出かけるか)
なんとも勝手な思いを巡らす。
今日は信号機に停められることなく、交差点を抜けることができる。
なんとなく気分がいい。この調子で商談もうまくいって欲しいものだ。
ある信号機も止まらずに抜けた。
「あれ?」
ルームミラーで確かめるももう交差点ははるか後方へと行ってしまった。
だが、私には変な自信があった。
(確かに今のは、紗希さんだ。横断歩道で待っていた。なんで信号が青なんだよ)
あんなにも気分よく通過できた信号が一瞬で恨めしく思えた。
(白地の柄のシャツ?ブラウスにジーンズかな。たぶんそうだ)
何を根拠にこんな自信が湧いてくるんだろう。
普段なら「どれどれ」と一も二も遅れて見つけることがあるというのに、今は動体視力を疑わない。
ただそれを確認することはないのが残念だ。
いや、確認できないことが、私の気持ちを高ぶらせているのかもしれない。
商談を終え、外に出たとき、大粒の雨が落ち始めた。
急いで車に乗り込み、走り始めると間もなく、フロンドガラスに幾つも落ちた。
このまま、もう1社に行かなくてはならない。
しだいに強まる雨足にワイパーも連続して稼動させた。
(先日もこんな日だったな)
何につけ、あの人を思い出す私は、どうなってしまうのだろうか?どうしたいのだろうか?
(一度、きちんと会ってみよう。そして・・そのあとは、会ってから考えよう)