紗の心
その夜、といっても私が自宅の最寄り駅を降り、携帯電話のランプに気がついたときだが、着信履歴にその人からの電話があったことを知った。
あと角を2つ曲がれば、家が見える道だ。
私は立ち止まり、リダイヤルを押す。
電話が繋がった。
「もしもし、佐伯です」
「紗希です。お電話掛けてごめんなさい」
「構いませんよ。どうしたの?」
「少し、声が聞きたくなって。でも外のようですね」
たぶん、横をすり抜けた車の音でも受話器に入ったのだろう。
「何かあった?」
どうしてだろう。その人からの電話を喜んでない訳ではないのに 用事は何か?と
問うような言葉ばかりを私は返しているように思った。
「別に大したことではないです。昨日、あの方の奥様とお医者様の会に出かけたって
くらい。佐伯さんとお話したくなったの。声を聞くだけでもいいかなって。
だからもう大丈夫」
「紗希さんが大丈夫でも 貴女の声を聞いた私は、その・・大丈夫ではないんですが」
「まあ 嬉しい」
「今、帰り道なので大きな声では話せませんが、近いうちに会いましょう。
会えるように考えます。だから紗希さんも予定しておいてください。
こんな声で良ければ、リアルに囁きますよ。あ…」
私の横を自転車の少年がちらりと見て通り過ぎた。
「じゃあまた、ご連絡くださいますか?」
「はい、そうします」
「お電話して良かった。楽しみにします。お疲れ様」
「ありがとう。じゃあ」
電話を切った。
〜いつもだ。用件が終わると電話を切る。いつも私が先に切る。
電話を切られた後の『ツーツーツー』と10回程の音の間、その人は、じっと耳にその音を聞いているのか?〜
再び、家路へ帰る。
「ただいま」
妻の姿がそこにあった。