紗の心
やがて、その時間が来た。
玄関で、誰も居ない室内に向い「宜しくお願いします。行ってきます」と呟いた。
出かけるときは、傍で見守ってくれていると信じている兄にそういって出かけるのが
その人の習慣だ。
玄関に鍵を掛け、門扉を閉めると、一台の車からおりてきた男に声を掛けられた。
「加納紗希さんですか。楠木様の奥様からお迎えを頼まれましたのでこの車で。どうぞ」
その人は、言われるとおり、その車に乗せられ、どこかへ向かった。
「あの、声をかけてもいいですか?」
「はい、何か?」
「この車は、何処に向かっているのですか?」
運転している男は、バックミラーでその人の様子をちらりと見ると笑みを浮かべた。
「ご心配なく。けっして怪しい者ではありませんから。奥様のお持ちになっている
ホテルへとご案内致します」
「ホテルですか?先ほど奥様はお宅の正面玄関から来るようにと言われましたけど。
私、ここで降ろしてください」
途中、信号待ちにかかったとき、その人は、ロックを開けノブを引いた。
だが、ドアは開かない。おそらく、チャイルドロックが掛けられ、内側からは開かない
ようになっているようだ。
「開けて下さい。降ろしてください。窓を割って大声出しますよ。」
信号が変わり、再び、車は走り出した。
その人は、車中不安になっていたことだろう。
(ホテルについて、ドアを開けられたら逃げ出そう。大丈夫・・)
山の手のホテルの駐車場に車は停まった。
男がエンジンを切り、キーを抜いて車外に出た。
その人は緊張しつつ、逃げ出す機会を伺った。
男の持つ携帯電話が鳴った。
男が話は始めた。車内のその人には、ところどころしか聞こえてこない。
どうやら、その人を誘い出したヤツのようだ。
「・・・もう・・可哀想・・・わかりました・・・はい・・」
男が、車に戻って来た。エンジンを掛け、その駐車場から車を出した。
車は、また走り出した。
「何処へ行くんですか?」
男は、答えない。
暫くすると、その人を乗せた車は見覚えがある町を走っていた。
大通りを過ぎ、住宅が並ぶその一角にある家の傍で車は停車した。
エンジンをそのままにその男が車を降り、その人の居る後部座席のドアを開けた。
ドアを開けたまま、その人が降りるのを待っているようだ。
その人は、その男の横を怖々擦りぬけ、車を降りた。
男は、ドアを閉めると、運転席に戻り、行ってしまった。