紗の心
「嘘は、言わないでねっって」
その人の視線は、私を攻めているわけではなかった。
むしろ、今にも溢れそうなものをこらえながら、ただ真実を知りたがっているように
思えた。
「紗希、この方が困っているようだから僕から話そう」
「待って。私、佐伯さんに伺ってるから」
私は、その男が、頷いた様子を見て話した。
「紗希さん、今日が初対面ではない。少し前、紗希さんの家から出てきた時に声を掛けられた。私に貴女と付き合うなと。もちろん、紗希さんのことを思っての事なんだよ」
「そう」
その人は、大きく息を呑んだ。
「私が、紗希さんに出会って、もっと逢いたくなって訪ねたのは本当だよ」
「紗希、あまり佐伯さんを困らせないで、僕からも話すよ。あ、でも紗希は、
自分のことを佐伯さんには話したのかな。僕と紗希のこと」
「はい。私が『妾』してるってことを話しました」
見てすぐに、私は感じた。本当にその人は、この男が好きなんだと。
「そうか。じゃあ私は、佐伯さんが居てくれるから紗希に話したいことがある。
ちゃんと聞いてくれるかな?」
「はい」
「僕と…(紗希)、ふたりの話かも知れないが、一緒に居てくれないか」
「わかりました」
その男は、私に声を掛けたいきさつから話し始めた。
その人は、その男の愛情の深さに時々、笑みを浮かべた。
私への気持ちも話しながら、和やかになってきたと思った。
だが、それもしだいに雲行きが変わりつつあった。
「僕が医者であることを隠していたのは、紗希に申し訳ないという気持ちがあってね」
「病院で何度か兄の病室から出ていらっしゃったから、どうして隠されてるのか、
不思議でした。兄の治療に最後まで頑張ってくださってありがとうございます。
本当に感謝しています」
「紗希は、懸命に働いて治療費と生活費と作っていたのでしょう。その時、お兄さんから相談を受けてね。もし助からないのなら、ひとりになる妹に残したいと」
その人の表情が変わった。
「どういうことですか?私、兄のために・・」
その人の様子が変わったことをその男も察したのだろう、言葉を選んでゆっくりと
話を続けた。
「お兄さんが、紗希に残せるようにと、治療を拒んだところがあってね」
その人の目が(だから?どうして?)と言いたげにその男と見ていた。
「もちろん私は医者だ。先進の医療で治療して助けたい。少しでも命を繋ぎたいと
してきたが、お兄さんは『紗希の一生懸命頑張る金が死に行く者へと使われていくことがつらい』と」
「嘘。兄は、お兄ちゃんは、紗希に『ずっと一緒に居るからね』って。
『頑張るからね』って言ってくれた」
その人は、泣く涙を忘れてしまったかのように瞬きもせず、テーブルの一点を見据えて
いた。