紗の心
あれから、日が経ってもその人のことが気に掛かり思い出す。
また会いに行くなど、考えもしないと思っていたはずなのに、行く理由を考えながら、
ぼんやりランチを食べることもあった。
近くの道を通るだけで、会えないかと期待していた。
ある日のこと。
その日は、朝からすっきりと晴れた日で、天気予報でも雨のことを伝えるお天気
お姉さんはいなかった。
だが、通り雨なのだろう、急に強い雨が降り出した。
私も営業車のワイパーを連続で動かし、走行していた。
信号待ちで、ふと横に目を向けた。自動販売機の小さなヒサシで雨を凌いでいる
女性がいた。
(気の毒に)
だが、すぐにそれがその人だとわかった。
車を道路脇に寄せ、停車した。ウインドを下げた。
「加納さん、加納さん、雨でお困りですか?どうぞ乗ってください」
「いえ、大丈夫ですから」
私は、助手席のドアを少し開けた。雨が降り込みそうだ。
それに気付いたのか、その人が駆け寄ってきた。
「大丈夫ですから」
「いいから、乗って」
私は腕を伸ばして彼女を導いた。
「すみません」
その人は、濡れた服を気にしながら助手席にそっと乗った。
やや細い道だが、初めて車でこの路地を、その人の家の前まで入っていった。
「ありがとうございました。助かりました」
その人は一礼すると玄関へと飛び込んでいった。
その後の私が、嬉しく鼻歌を歌ってしまったことは、誰にも知られていない。
会社に戻った頃には、雨はすっかり上がっていた。
「ただいま」
「急の雨、大丈夫でしたか?」
「ああ、車に乗ってる時だったから、濡れてないよ」
「さっきまで虹が出てましたね」
「うーそうだったかな?見てないな。ここから見えたの?」
きっときれいな虹が出ていたのかもしれない。
だが、それよりも他のことを考えていたにちがいない。
その人の雨に濡れて透き通りそうなTシャツと色が濃淡になってしまったジーンズ姿が
瞼に残る。
(初めて見るな、洋服の彼女・・サキさん)
着物姿のときには結い上げていた髪を下ろしていた。
雨に濡れた髪からほのかに甘い花のような香りがした。
(営業車に匂い残ってるかな。人を乗せたのがばれるだろうか?)
要らぬ心配ばかり浮かぶ。
「佐伯さん、何嬉しそうな顔してるんですか?」
「してないよー。いやしてたかな」
若い女子社員の突然の指摘に少々敏感に反応してしまった自分が可笑しかった。
退社時間が迫ってきた。
帰宅してビールを飲みながら、思い出すのも悪くないな、などと考えていた矢先、
得意先からの電話が入ってきた。
私の思惑は、潰れてしまった。
あの路地とは全く逆の方向へ車を走らせ、仕事を済ませると、そのまま帰宅した。