紗の心
玄関の入り口にこじんまりした看板が掛けてある。
『更紗きもの塾』
「どうぞ。夕方に生徒さんが見えますけど、お教室の方へ。こちらです」
玄関を入ったすぐ右の部屋は六畳の和室だ。
あるのは姿見の鏡が3面と壁に掛けられたカーテン?
家具や道具がないと六畳も案外広い。
私の部屋と同じとはとうてい思えない。
その人は折りたたみ式の卓袱台(ちゃぶだい)を部屋に用意した。
「座布団はなくてもいいですか?」
「大丈夫ですよ。おかまいなく」
ほどなくしてその人が、冷えたお茶と一口大の菓子を私の前に置いてくれた。
家使いの自分のコップだろう、私に合わせて運んできた。
向かい合わせに座った。
「今日もお着物なんですね。看板がありましたが、教えていらっしゃるんですね」
「はい、ほんとに少人数ですけど。興味はありますか?」
「いや、よくわかりません」
「ふふ、そうでしょうね。いまどき時代に合わないでしょうし」
「そんなことないですよ。貴女は・・ん・・似合ってます」
「まあ、ありがとうございます。どうぞ、お茶温くなってしまいますよ」
私は、急に喉の渇きを感じ、半分ほど飲み干した。
「あの、お名前伺ってもよろしいですか?一応。男の方をお招きすることは
ほとんどないので」
私は、免許証入れに入れていた名刺を差し出した。
「見せていただいても宜しいんですか?」
着物の袖から腕が伸びた。
素肌の腕などこれからの季節、見たくなくても目にするだろう。
だが、隠されていたものが、ほどよく見える瞬間はなんともいいものだ。
私は、はっとした。もしやじっと見据えてなかっただろうか、と。
「佐伯 崇(さえき たかし)といいます」
(なに自己紹介してるんだ)
「ご丁寧に、佐伯さん。はいこれ、お返しします」
その後、私は、やや有頂天になって話をしていた気がするが、あまり覚えていなかった。
帰宅して、思い出してみても 曖昧な記憶が多い。
ただ繰り返し脳裏に焼き付けたことは、その人の名が『加納 紗希(かのう さき)』と
いうことだった。
この日、私に「秘密」が生まれた。