紗の心
着替えて食卓の席に着くと、冷えたグラスとビールが前に出された。
なんとなく居心地の悪さを感じながらも、いつもと変わりない素振りを心がけた。
(なんだろう?!)
「何かあった?」と妻に尋ねた。
「ん、どうして?」
「サービスいいじゃない。だから何かと思って」
妻は、私の前の席に座り両方の肘をテーブルにつけ、頬杖をついて笑みを浮かべた。
「私ね、お勤め先で褒められたの。で、今度ちょっと上の仕事任されることになったの。で、少し遅くなることもあるようになると思うの。で、ほとんどないと思うけど、
出張もあるかもしれないの。で、頑張ってみていい?」
「でー、これはその為のご機嫌取り?」
「んー、まあそうかな。わかりやすいでしょ」
私は、少し安堵していた。
少なくとも私の行動に対して関わりがあることではなさそうだ。
「だって、お勤めしたいと言ったときに 崇さんと約束したことあったから。
許してもらえるか気になってて」
「どんな約束したかな?」
「えー忘れたの?なーんだ、じゃあそのまま忘れていて!」
「良かったね、頑張って。でも体に無理しないように。きみが楽しく過ごせるように
仕事してくれればいいから」
私は、いつもどおりに食事を終えると、部屋へと行った。
鞄から出した資料の端にどこで零したのか、和菓子の欠片(かけら)がもう乾いて
くっついていた。
(こんな話でも妻とはするんだ。紗希さんは誰かに他愛もない話を聞いてもらって
いるのだろうか。今頃はひとりで どんなことをして過ごしているのかな)
少しばかりの時間を 私やあの方と過ごしても きっと淋しさのほうが大きくはない
だろうか、と考えるとずっと一緒に居てあげられないのなら、逢わないほうがいいの
だろうかとも思った。
だが、私自身の気持ちは、逢いたいと逸る気持ちを抑えるのが、いたく辛いのが本音だ。
深い溜め息をついた。
何度ついても、なんの答えも出やしないのに。
明日の予報は、夏日になるらしい。