紗の心
「あの、今日は何時まで?」
私は、壁にあった時計を見た。もう30分ほどたっていた。
「紗希さんの都合は?」
首を横に振った。
(もう駄目?ってことかな)
ラグに座っているその人を自分の方へと呼んだ。
「こちらへ来ませんか」
その人はそのまま私の足元へと身を寄せた。
「ここへ」
手を取り、膝の上へと座らせた。
しゃりしゃりとした着物の感触とほのかな香の香り、その人の重みを抱きしめた。
「重いでしょ」
「紗希さん、キスしてくれますか?」
その人は、肩に手を廻し、唇を合わせ、目を閉じた。
数秒後、唇を離し目をゆっくり開け、私を見た。
「ありがとう。でももっとキスしたい」
私がその人にキスをした。
唇ごと食べてしまいそうに 柔らかな舌さえ高価な赤身を味わうように。
いつ息をついたらいいのかわからないくらい。
その人を支えきれずにソファに倒してしまうくらい。
ときどき、着物の擦れる音だけが耳に聞こえた。
「はあ」その人の吐息が零れた。
勝手な話だが、許された合図のようにその吐息は感じた。
幾重にも重なり合っている着物の裾をその人の脚に触れたがる手が左右にさばく。
なかなか辿り着けない。
(なんだか面倒だ)と少々苛立ちもする。
「・・・ほどきましょうか」その人が囁く。
「いや、着物姿の紗希さんが見たかったんだからこのままでいいよ」
(そんな本音は、たてまえだろう。してもらえばよかったじゃないか)
私の気持ちは、乱暴ものに成り下がりそうだ。
「紗希さんは、抱いて欲しいの?あの方の代わりじゃなく、わたしに」
見下ろすその人の瞳が潤む。
「代わりにしているわけじゃありません。そんな言い方は淋しいです」
片方の目尻から一筋伝った。
「じゃあ、今度いい?」
頷きかけてその人は言った。
「ここじゃないところで お逢いしたい。それでいいですか?」
「わかりました」
私は、被さっていた体を起こし、その人もソファーの横に座れるよう抱き起こした。
そのまま抱きしめた。
「いい匂いがする。今日は、これで我慢しよう。・・ならいいよね」
再び、私たちは、唇を重ねあった。
首筋にも うなじにも ずらした衿元から覗く鎖骨や肩にも撫でるようにくちづけをした。
その人も私の耳たぶや少し髭ののびかけた顎、緩めたネクタイの喉の辺りを舐めてくれた。
「ちょっとしょっぱい」と言いながら、微笑んだ。
ふと時計に目を向けた。
その人は、私から離れた。
「もう時間ですね。お勤め帰りにお疲れだったでしょ。ありがとう」
向かい合ったその人のほどけた髪を撫でつけながら、自分の思いを静めた。
「じゃあ帰ります」
その人は、靴を履いた私のネクタイを整え直した。
「いってらっしゃい」
玄関で別れた。