紗の心
その人は、私の手を取るといつもとは違う方へと連れて行った。
初めて入ったその部屋には、日常の生活が伺われる家具や道具があった。
「あまり見ないでくださいね。片付いていないから。どうぞ椅子にかけてください」
その人は、私の持っていたカバンを受け取ろうと手を伸ばした。
「あ、そうそう」
私は、鞄から小箱を取り出した。
気をつけて入れたはずだが、鞄の中で横に転がってしまっていた。
「すみません、片寄ってしまいました」
「和菓子。ありがとうございます」
「仕事の途中に買ったので鞄に入れたままで。ああ、形が崩れてしまいましたね」
「でも美味しそう。お茶入れますね」
私は、その部屋に似合ったソファーに腰掛けた。
その人が、お茶と器をテーブルに置いた。
床のラグに座り、和菓子の包みを開けているその人に話しかけた。
「季節感がありますね。先日とは違った菓子が並んでいたので、迷いました」
「そうですね。和菓子は素材は変わらないのに色や形で季節を作っていますね。
洋菓子はフルーツや飾りで季節を出しているし」
「紗希さんは、ケーキも食べるの?」
「もちろん、大好きですよ。ケーキも和菓子もパンもご飯も結構食いしん坊です」
「今日の着物も似合ってる」
「えっ・・」
突然変わった話題にその人は頬がこわばった。
ガタン
その人が膝の向きを変えようと立ち上がりかけてテーブルにぶつかった。
「大丈夫ですか?」
テーブルの上に揺れたお茶が零れた。
「ごめんなさい。今、布巾取って来ます」
その人は、立ち上がり台所へ布巾を取り、戻って来た。
「慌てなくていいですよ」
テーブルを拭く腕が着物の袖を揺らす。
交互に折り重なった襟元から白い首がすらりと見える。
衿の後ろがやや広めに開いているところに息を吹きかけてみた。
その人は、蚊が啼いたほどの(実際に蚊の鳴き声を聞いたことはないが)声を出し、
そこに手を当てた。
「もう。佐伯さんは・・」
「ソコが『そうしてください』って言ってるようでしたから。ははは。言うわけないか」
「じゃあお勉強。ソコが、じゃなくて衣紋(えもん)といいます。首の後ろの衿のこと。
抜き方も年齢や着物によって違うんですよ。未婚の女性はあまり開けないとか、
花嫁さんや芸子さんはぐっと開けてますよね。浴衣(ゆかた)は誰でもあまり抜かない」
「紗希は?」
私は、はっと気付いた。
気まずくならないだろうか。
「紗希は、用途に合わせて・・ですよ。今は、んーどっちかな」
その人の笑顔に救われた。