紗の心
その日は、朝から小雨が降っていた。
近頃は、どこもが『クールビズ』を推奨してノーネクタイ姿が増えた。
普段は、私もそのひとりである。
だけど、今日はこの時期のネクタイを締めてみた。
家を出るとき、久し振りのことで歪んでいたのだろうか、妻が直してくれたおまけ付きだ。
「やっぱり、ネクタイがあるとかっこいいね」
「いってきます」
言われて、うしろめたさと褒めてもらった嬉しさの混在する気持ちのまま後ろ手に
ドアを閉めた。
仕事は、前もっての段取りが功を奏した。
それに加え、ネクタイを締めていたことが良かったのも、何かの仕業か?偶然か?
妻には、これを理由としよう。
会社へ戻り、残りの作業を行い、定時には退社した。
これで心おきなく、この後の時間を使える。
雨もすっかり上がったようだ。
駅の方へと出たが、乗り継ぎその人のところへ向かうのは、正直面倒、時間的にも
掛かりそうだ。
ちょうど、タクシーが通過するところを手を挙げ、停めることができた。
走り慣れたタクシードライバーらしく、夕方の交通量が増えてきた道をすいすい走り
抜けて行った。
「この辺りでいいですか?」
広い通りでタクシーを降り、路地へと向かいながら、携帯電話を掛けた。
「はい。紗希です」
「佐伯です。近くまで着きました。どこでお会いしますか?」
「うちへ」
「では、もうすぐ逢えますね」
私は、電話をそのままに、耳元で握り締めたままその人の家へと歩いた。
「あ、佐伯さん、歩きながらのお電話・・クスッ、息が苦しそうですよ」
「紗希さん、そりゃ失礼な。まだまだ大丈夫ですよ。はあ」
「ほら、やっぱり無理してらっしゃる」
「着いたら介抱してくれますか?」
「いいですよ。早く・・来て」
その人の家のインターフォンを鳴らした。
開いたドアのところには、携帯電話を耳に当てたその人が立っていた。
「お電話切ってもいいですか?」
私は、玄関に踏み入ると、片手でその人の顎を支え、キスをした。
チュッ。『チュッ』携帯電話からとリアルな音とを両方の聴覚が伝えた。
「うふ、不思議なキス。どうぞ上がって」
その人は、電話を切り、玄関のドアを閉めた。
私も電話をポケットに入れ、靴を脱いだ。