紗の心
「わかりました。貴方がどのように思われるかは、ご自由ですが、けっしてあの人、
紗希には何も話さないでください。現状のままの生活をもう少し、そっとしておきたい
ので。これだけはお願いします」
その男性は、佐伯に頭を下げた。
(本当に紗希には言わないでおいて欲しいらしいな)
「僕は、おっしゃるとおり、医者をしています。あの人のお兄さんとは先輩後輩という
間柄でした。彼が勤め先の検診で再検査の為にたまたま僕の居る病院へ来ての再会でした」
(紗希さんのお兄さんを助けられなかったのか!)
「主治医になりました。彼の家族の事は、少し耳に入っていたので、治してやりたかった。こんな言葉を医者が使うのは、不謹慎だと思いますが「残念、無念」
病気が見つかったときにはもう末期の症状。治療は延命だけに過ぎない。
どうしてもっと早くに見つけられなかったのかと医者の限界と無常に悩みました」
私は、挿む言葉が見つからなかった。
「治療を始めて暫くして、お店帰りのまま病院に来たあの人を見かけました。綺麗でした。いつもは髪を後ろに結んで シャツとジーンズ姿ばかりでしたが、化粧して。
あの人は懸命に働いて治療費と生活費と作っていたのでしょうが、彼、あの人の
お兄さんから相談を受けました。もし助からないのなら、ひとりになる妹に残したいと。
お金が死に行く者へと使われていくことが彼はつらいと。もちろん僕は医者ですから、
そのような患者さんの申し出を『はいそうですか』と聞き入れることなどしたくない。
先進の医療で治療して命を繋ぎたい」
私は、いつの間にか、その身の上話にじっと聞き入っていた。
「とうとう、根負けでしたよ。薬は飲んでくれない。辛いときでも鎮静剤は使わず、
我慢する。あの人の強情さは家系なんでしょうかね。そして、家内にまで頼むんですよ。家内は、彼と同級生でね。この計画も家内が絡んでいますから
私は、あの人には、何もしない。できない」
「でも、彼女おでこにチューとか、あいやいや、せっかくのいい話のあいだに
失礼しました」
本当に私のタイミングは最悪極まりない。