紗の心
「紗希さん」
「はい」
「紗希さんの『あの方』は何をなさってる人なんですか?」
「どこかの会社をしている方だと。兄の仕事の取引先の社長さんとか。
あ、そう同じ学校の先輩後輩で意気投合したとか、兄の後片付けをしているときに
お聞きしたことがあります。それが何か?」
『紗希さんは、そんな曖昧な話で・・その・・『妾』なんて契約をしたんですか?
信じられない」
「・・・そんな言い方・・しないでください」
その人は、握った手に力を込めた。
「誰もいなくなっちゃったんです。頼る人も。社会って女がひとり生きていくには優しくないんですよ。あの方がそんな生活から出してくださったのですから心から感謝してます」
「紗希さんは、それで幸せなのですか?壊してしまえば、もっと楽になれる」
「何を壊すんですか?あの方との関係?こんなに自由にさせて頂いていて、月の分を
戴いて。こうして佐伯さんと逢えて、何も壊さなくてもいい。でもきっと奥様には
要らない者でしょうね。申し訳なく思います。だから早くきれいにして自立しないと、
とは思いますけど」
「すみません。余計な事でしたね」
握る力が抜けた。
「佐伯さん、今日は帰ったほうがいいですか?気分を悪くされたでしょ」
「いや、聞いたのは私です。紗希さんが今日を愉しんでくれるならこのまま居てください」
「はい」
(良かった。いつもの笑顔だ)
また、花火の音だけが響いた。
繋いだ掌がしっとりと合わさったまま無言で過ごした。
車は大きな川に掛かる橋を渡った。私もここを通るのは久し振りだ。
景色は変わらない。
きっとあの場所も同じようにあるだろう、とそこへ向かって走った。
「こちら方面はいらしたことありますか?」
「いえ、あまり出掛けないですから。大きな川ですね。橋を渡るのも大変」
休日のうえに各地で花火大会もあるようだ。
みんな場所の確保に早くから動き出したのか、橋の上も連なる渋滞にはまってしまった。
私たちは、引き返すことのできない橋を渡り始めた。