紗の心
私はそっと家を出た。
今日は曇り空だ。
途中でその人に連絡をした。
「待ってます」と言ってくれた。
今日は、駐車スペースで車を停めて待っていた。
その人が、そこまで来てくれることになっている。
時間が近づく。コツコツと靴音がした。
その人の姿が目に入った。今日は、洋服だ。
仕事に出かけるときとは違ってワンピースのような服に丈の短い上着を羽織っている。
髪を下ろしたその人は、いつもより若く見えた。
私は、助手席のドアを開けた。
「どうぞ」
「おはようございます。いいですか」
隣に乗せたその人を何故か見られなかった。
恥ずかしいという感覚とは違うが、この歳になって含羞(はにか)んでも
誰の話題にすらならないだろうが、照れくさかった。
そこから車を出した。広い通りへと出たが車もまだ多くはない。
「どこか行きたいところはありましたか?」
「思いつかなくて。佐伯さんはありますか?」
「いや、しばらくこのまま走っていてもいいですか?」
「はい。ハンドルは佐伯さんが握っているのでお任せです」
「そんなこと軽く言ってはいけませんよ。ふたりで考えないと」
私は、左手をその人の方に伸ばした。
その人は右手で握って左手を添えるように繋いだ。
柔らかな手の感触にハンドルを握る右手が妬きもちをやきそうだ。
早くどこかに停めて、両手でその人を包みたくなった。
ドドォーン。
どこかで音がした。
「花火かな」
「そうだね」
「見えない花火もいいですね。目を閉じてどんな花火かを瞼の裏で想像するの」
ちらりと横をみると、その人が目を瞑っていた。
「どんなのが見えましたか?私がそれをすると大変なことになるから教えてください」
「あ、ごめんなさい。私」
ぱっちりと開けた目で私のほうを見ているようだ。
「今日は、着物じゃないんですね。浴衣姿も見たかった」
「じゃあ今度。まだこれからが夏ですから。また逢えますよね」
その人の無防備な発言は、逆に私を抑制させるところがある。
この雰囲気の中なら尋ねても良さそうだ。