紗の心
携帯電話が鳴った。妻からだ。
今夜、実家に泊まってもいいかという連絡だった。
私は、承諾した。
ひとりの留守番はなかなかないことだ。
それに今日の気分を落ち着かせるにはいい時間だ。
夕飯は、冷蔵庫の中にあったおかずの残りとビールで済ませた。
二人分のわずかな洗濯ものが、これ以上の乾燥は難しいほどに掛けられたままだった。
学生時代、いや社会人になってひとり暮らしの充実などと張り切って家事をしていた頃を思い出しながら取り込み、たたんだ。時間が止まっているかのように長く感じる。
携帯電話を手に取り眺める。手持ち無沙汰を補うにはいい道具だと思う。
その人のアドレスを開く。
名前と電話番号以外の登録はない。
私とその人の関係など、それだけでしかないのだろうか。
ふと寂しい。
発信を押す。相手を呼び出す音が聞こえる。数回鳴った。
[只今、電話に出ることができません。ピーッという発信音の後にお名前、ご用件を
お話しください]
私は、そのまま電話を切った。
溜め息をついた。
冷蔵庫からもう一本ビールを出してきた。もうつまみは要らない。缶のままぐびぐびと
飲んだ。
喉を通る炭酸とホップの苦味が五臓六腑に流れ込むようだ。
何処まで聞こえるかと思うほど、大きく下品なゲップをひとつした。
もう一度、携帯電話でその人に掛けた。
やはり数回鳴った。
またお決まりのアナウンスが流れ始めた。
[只今、電話に出ることができません。ピーッという発信音の後にお名前、ご用件を・・]
アナウンスが終わりかけに途切れた。
「あ、もしもし。私です。紗希です」
電話の向こうで何かを落としたような音が受話器を通して聞こえた。
「大丈夫ですか?」
「痛ー。あ、大丈夫です。こんばんは」
「こんばんは」
「どうされたんですか?佐伯さんがお電話くださるなんて。嬉しいです」
「忙しいようですね」
「あ、もしかしてこの電話何度目かでしたか?さっき鳴っていたような気がします。
ごめんなさい」
「あの、今日は(あの方にあったことは言わずにおこう)楽しかったですよ」
「はい、私も」
「今度の休み、いや月曜の祝日、逢いませんか?何かご予定がありますか?」
「もう、そんな頃。いいえ、私は空いてますよ」
「迎えに行きます。外で逢いませんか?」
「はい、わかりました」
その人と待ち合わせ時間を決めると電話を切った。