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紗の心

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その人は、先日見失った角を曲がり、細い階段を上がって行くところだった。
「あの。すみません・・・すみません」
「はい、私ですか。なにか?」
「ええ、この階段はどちらに続いているのですか?」
「はい、この上のお寺とその墓地へ行けますよ」
「あ、ありがとうございます」
「お出でになるのでしたら、お先にどうぞ」
その人は、癖のない標準語で話をする。
おっとりしているわけでもないが、耳に素直にはいってくる言葉に営業の躍起になった
台詞が癒されるようだ。
「いえ、私は後から行きますから」
「私は、このような服装ですから。お仕事中の急がれる方はどうぞお先に」
その微笑みについ気をよくしてしまった私は、(あなたを追っかけてきただけです)などと言えるわけもなく、目的もないまま階段を上がって行った。
その人は上前の端を手元に押さえながら、7、8段間を取り私の後を上がってきた。
「はあ」階段をのぼりきると大きく息をついた私を後ろでクスッと笑った。
少々恥ずかしく、振り返るとその人は息が上がっている様子もなく、笑みを浮かべた。
「大丈夫ですか?」
「はあ、貴女は平気のようですね」
慣れたのかもしれませんね。ではここで」
私の横を通り過ぎて行った。
寺の裏門なのだろうか、門をくぐると本堂に会釈し、墓地の方へと歩いて行った。
(誰の墓があるんだろう?)
目的もないままに上がってきてしまった私だが、そのまま下りて行くのももったいない
気がした。
少なくとも、まだここにその人がいるのだから。
私は、その寺の正門と思われる方へと廻った。
裏門とは違い、歴史を感じそうな一枚板に書かれた寺の名が掲げてある正門を正面に見た。
日頃、じっくりと見ることはない。
それにもまして、感動というとやや大袈裟だろうが、その門を背にして立った時に
見渡せる景色は異質のものだった。
「まだいらっしゃったんですか?」
「あ、はい。ここの景色いいですね」
「そうですね。ここに眠る方々はいいですね。いつも見られて」
「いや、私は生きて見れたことに感動してますよ。そう思いませんか」
「そうですね。では私はこれで」
「あ、私も今下りて行こうかと思っていたところで」
私は、その人追いかけて来たことがあからさまに分かりそうな様子をしてしまったことに苦笑いをした。
ただ、その人の後ろを歩くことになったのは、幸いだった。
「じゃあ失礼します」
「はい。さようなら」
私は、路地を止まることなく抜けて、帰路についた。

作品名:紗の心 作家名:甜茶