紗の心
「ここまで来て頂いてなんですが、あの人とは会わないでいただけますか」
その男性はこう切り出した。
「それはどういう意味ですか」
「そのままです。失礼ながら貴方はご家庭をお持ちの方とお見受け致しました。
あの人とは遊びですか?」
「そんなことを貴方に言われることではないでしょう。第一私は貴方のことを知らない。まずは名乗ってからじゃないですか」
「だが、貴方は僕についてここへいらっしゃった。事情はある程度ご存知のようだ」
「彼女がいうには『妾』だと。その誰かが貴方なのだろうと思い、話をしに来ました。
そうなんですよね」
「あの人が、そう言いましたか」
その男性は、椅子の背に凭れ、深く息をついた。
私は、乗せられた勢いのまま、口をついて言葉にしてしまったが、
その人が「話したら迷惑が掛かる」と心配していたことだと脳裏をよぎった。
「あ、今の事で彼女を責めたりしないでください。無理に聞いたのは私で、
彼女は貴方に迷惑が掛かるといけないからと気にしていましたから」
(あれ?紗希さんを弁護したつもりだが、逆効果だったか?!)
その男性は、背を起こして私に向き直った。
「あの人は貴方には気を許したってことですか」
その男性は、先ほどまでの攻めた態度を和らげた。
「突然の失礼、申し訳なかった。貴方が独身だったら。まあどちらにしても、遊びなら
早いうちに止めていただくか、それなりの覚悟をお持ちかといったところでしょうか」
「私には、先ほどからの話が理解できません。貴方は、立派な肩書きをお持ちの方の
ように思いますが、名乗りも出来ない人にどうこう言われっぱなしは、私も気分が良く
ない。かといって何らかのご事情もおありのようだ。そう感じます。私も秘密の部分が
あります。公言はできません。彼女の幸せになることでしたら、貴方の言う通り、会う
こともしませんから話してはいただけませんか」
私なりに精一杯の冷静な態度でその男性に向かった。