紗の心
暫く、その人のいう見てるだけの時間を過ごした。
言葉がない分、頭の中でいろんなことが思い浮かぶ。
本当にいろんなことだ。
その人のことはもちろんといえばいいのだが、何を考えているんだろうとか、私の事を
どう見ているんだろうとか、たとえば、私の容姿はいいとか、そうでないとか。
ついには会社の机にあったメモのことや商談のことだったり、先週読んだ雑誌のことが
浮かんだりする。全く集中するということが、これほど難しいものかと、そんなことさえ思い浮かぶ。その人の頭も中には何が浮かんでいるんだろう。
「あの、紗希さん」
「はい」
「何を思って私を見ているんですか?」
「何も考えてません、たぶん」
「何も?」(そんなわけはないだろう)
「だって、考えてしまうと、私の無理な欲ばかり浮かんでしまいますから。
私の記憶が覚えていられる限りの佐伯さんを見ていたいだけ。
やっぱり変ですよね」とクスッと笑った。
ときどき、私の常識的な考えが及ばないほど、可笑しな言い方をする。
理解しようにも、どうなのかさえわからない。
訳がわからないからそのままほかっておくことがしばしばだ。
まったく、変な人だ。
だから、面白い。だから、好きなのかもしれない。
「そろそろ帰ります」
私は、意識的に「今日は」とか「また」とかという言い方を外した。
その人に逢いたい気持ちに偽りはない。
しかし、いつ叶わなくなるやもしれない。
その時に私自身が寂しくなりたくないと思った。
「はい、玄関までお送りします」
立ち上がり、すんなり玄関で靴を履いた。
掛けられていたロックを外し、ドアを開けた。
屋外の暑い空気がむっと鼻から入り込む。
「じゃあまた」
私の背中に言葉とともにその人の掌がそっと触れた。
私は、そのまま玄関を出た。
暫くして(きっと私の姿が見えなくなってからだろう)玄関が閉まる音がしたようだ。