紗の心
携帯電話が鳴った。
いや、派手な着信音などで注目をされないためにマナーモード状態、机に振動が伝わった。
(5時前?!)
「はい、佐伯です」
こんなにも緊張と丁寧に電話に出るなど自分の中では珍しい。
軽い感じの声。
相手の声は、男性だ。
(おいおい、なんでこの時間なんだ!)
先日訪ねた会社の担当者が替わりますとの挨拶の電話だった。
よく知る大切な得意先の会社からの電話だ。
無下に切るわけにはいかない。
ジレンマを感じつつも一区切りの話を終えた。
「・・では、改めて伺います。宜しくお願いいたします」
相手が切るのを待って電話を切った。
時計は5時を回ってしまった。
(かかってくるだろうか・・?)
私は、席を立ち上がろうとしたとき、再び携帯電話が振動した。
初めて見る電話番号。
私は、椅子に腰掛直すと電話に出た。
「はい、佐伯です」
「もしもし加納です。お仕事中でしょ?大丈夫だったのですか、このような時間に
お約束して」
その人のほうが、冷静な常識を持ち合わせていたと、恥ずかしく思った。
「すみません。貴女も仕事中ですよね?」
「大丈夫です。今日は、今終わったところですから。ごめんなさい。
だから、お約束の時間より遅くなってしまいました。ご迷惑でしょ。切ります。
また掛けます。では」
「あ、待って。番号わかりましたから、後ほど私の方からご連絡致します。それでは」
電話を切ったあと、集中して仕事をまとめた。
通常の退社時刻になって、席を離れて行った者もいたが構わず、続けた。
私も区切りをつけた。
「さてと帰るか。じゃあお先に。おつかれさん」
私は、さっさとそこを離れた。
誰かに止められたくない気持ちが大いに働いた。
会社を出て、駅前まで来た。
雑然とした場所の方が、落ち着ける気がした。
道行く人も少なくはないが、駅で携帯電話を掛けたり見ている人が多いのも
選んだ理由かもしれない。
着信履歴から発信を押した。
コール音が耳に緊張を伝える。
「はい」
「あ、加納さんの携帯ですか?」
「はい」
「紗希さん」
「はい」
「こんばんわ」
「こんばんわ」
「えーっと、先ほどは失礼しました。お電話くださいっていったのは私なのに」
「いえ、どきどきしました」
「私もです。ありがとう」
次の言葉が届いてこない。
「紗希さん」
「あの」
ほぼ同時に声をかけた。
「どうぞ紗希さん」
「あの、今度の週末うちへいらしてください」
「え?」
予想もしていなかった嬉しい出来事といったところか。それとも聞き間違いか。
次の言葉が出ない。
「すみません。私、無理なこと言ってしまって・・ますよね。ごめんなさい」
「いえ、私なんかが伺っていいんですか?」
「お会いしたいです。こういう理由では来ていただけませんか?」
「何時ごろが?」
「10時頃でも大丈夫ですか?」
「わかりました。伺います」
そのあと、別の話もしたが、やがて電話を切った。