紗の心
「私、妾なんです。いまどきこんな言い方しないかしら。でもたぶん佐伯さんなら
少しは理解できる言葉かな」
私は、指先に摘み上げた菓子をそのままにその人を見た。
「嫌(や)だな、私。こんなこと、見ず知らずの方に話しちゃうなんて」
「もう見ず知らずじゃないでしょ。こうしてお茶を飲んだり。
突然に押しかけてなんですが」
「不思議・・かな・・。なんだか話して気持ちが軽くなれた。
誰にも言えず、知ってる人はいるかも知れないですけど、自分から話したなんて初めて。
話しちゃいけないことだから。あの方にご迷惑がかかってもいけないし。
あ、もう聞かないでくださいね。私、貴方になんでも話してしまいそうだから」
その人は、お茶を一気に飲み干した。
「私が聞いてあげたら、貴女は楽になるんですか?ん、紗希さん」
「そうかもしれません。でももうしないと思います」
「じゃあ、今日、今だけ話してみてはいかがですか?」
その人は、私と自分の湯呑みに温かい茶を注いだ。
言葉はさほど多くはなかったが、事故のような状態で家族を亡くしたこと。
そのとき一緒に残った家族も病気で亡くしたこと。
その後、働いていたお店で その病気だった家族の昔からの知り合いだったという
『あの方』と出会ったこと。
『あの方』の『妾』として今の生活を作ることになったこと。を淡々と話してくれた。
『あの方』には家族があることはもちろんだが、紗希の存在を奥様もご存知なことが
私には不思議にも思えた。
(そんなことをする男性が今もいるのか。それを黙認する奥さんってどれだけの
人なんだろう。どんな資産家なんだろう。紗希さんをずっとこのままにしておくのか・・)
「佐伯さん、こんなこと聞かされて、ご迷惑じゃなかったですか?
私は、私は嬉しかったです」
「紗希さん」
「はい。佐伯さん。名前を呼んでくれるんですね。それも嬉しい」
「そうですか」
「はい、ここにみえる生徒さんは、先生って呼びます。会社へ行けば、加納さん。
当たり前なんですけどね、でも名前で呼ばれるとき、(ああ、私なんだ)って気がするの。
可笑しいでしょ」
「いや、何となくわかります」
「ほんとですかー?」
その人は笑う。
私も釣られて笑ってしまった。
「じゃあ、紗希さんは、これからもその方と」
その人の表情が少し曇ったように感じた。
「これから・・ね。どうなのかな?まだまだ返さなくてはならないし。
あの方は「いいよ」って言うけど、こうして家を見つけてくださって、好きなことが
できるように協力と応援をしてくださって。働いてもなかなかお店にいたほどには
貯められなくて」
「仕事って、この着物の教室?」
「ううん、お教室は週に3回ですもの。収入なんてほとんどないですよ。
でも好きだからわがまま言わせていただいてます。あとは、ほらこんなスタイルで
労働してますよ。そうあの日も仕事帰りの大雨。今日も。」
「似合ってますよ」
「せっかくの和菓子を。あーあ着替えれば良かった。これを戴くときは、そうします」
「紗希さんは・・」
そのあとに言葉が続かなかった。
微笑んでいるその人を見ているだけでよかった。