夢の唄~花のように風のように生きて~
お千香はか細い声で言った。
「でも、お嬢さま、そのようなことは滅多におっしゃってはいけませんよ。たとえ昔は奉公人とは申せ、今は、あの方がこの美濃屋の主、ご当主でいらっしゃるのですから」
「判っています。お前だから、こんなことも話せるのよ」
お千香はそう言って、淋しげに微笑んだ。
おみつは、そんなお千香を痛ましげに見つめた。赤子のときから我が乳を差し上げて育てたお千香は、おみつにとって我が子も同然の存在だ。幸せになって欲しいと心から願っている。
だが、幸せには縁遠い宿命を生まれながらに背負ったお千香であった。何故、先代の旦那さまは、お嬢さまが心から愛し信頼できる方を生涯の伴侶としてお選びになっては下さらなかったのか、と、おみつは口惜しい想いだった。
政右衛門は、定市が美濃屋の跡取りとしての器であると見抜いたものの、肝心の娘婿としてふわさしいかどうかという点については見誤ったようであった。
それに―、お千香は美しい。定市との意に添わぬ結婚生活が皮肉にもお千香の美貌に愁いを与え、よりいっそう臈長けたものにしていた。あどけない少女が時折かいま見せる大人の女の顔は、男を魅了するには十分すぎるだろう。定市が丁稚として奉公にきた当初から、お千香に恋していたのは知っていた。定市がお千香を見る熱っぽい視線を見れば、恋心は一目瞭然だった。
が、おみつは、そのまなざしの中に、憑かれたれたような狂気じみた感情が潜んでいることに不安を抱いていた。暗く燃えさかる情熱とでも言ったら良いのだろうか。あたかも蛇が捕らえようとする獲物を遠巻きにじっと眺めているような、執念深く陰湿な視線だ。
お可哀想に、あれほど美しくお生まれになったことがお嬢さまに災いをもたらそうとしている―。おみつは、どんなことをしてでも、お千香を定市の魔の手から守ると誓った。もし仮にお千香当人が定市に惚れており、心から望んでいるというのであれば、若い二人が名実共に夫婦になることも祝福できた。それがたとえ先代の遺言に背くことだとしてもだ。おみつが考えるのは、まずお千香の幸せであった。
「おみつ、私は旦那さまが怖い」
あの冷たい眼を思い出すだけで、ゾッとする。嫌らしげな笑いを浮かべて、お千香の身体に触れようとするのも気味が悪い。
不安げに訴えるお千香に、おみつは安心させるように明るい口調で言った。
「ご心配には及びません。今夜から、また私が今までのようにお隣で不寝番を勤めますゆえ」
おみつは、にっこりと笑った。
その言葉どおり、その夜から、おみつが再び隣の部屋で寝むようになり、そのことがお千香にとって、いかほど心強いことかは計り知れなかった。
【手折られた花】
離縁を申し出ながら、すげなく突っぱねられたその日から、ひと月ほどが経過した。
その日以来、お千香はおみつの言いつけを守った。けして定市と二人きりにはならぬように心がけた。
二月の初旬、定市の六代目襲名披露の儀が行われ、定市は名実共に美濃屋の正式な主となった。
暦ははや弥生に入ろうとしており、江戸でも梅の花が咲き始め、早い春の訪れを告げていた。
ある日、おみつが急に休みを取ることになった。嫁いだ娘がいよいよ産気づいたとかで、駆けつけることになったのだ。おみよには飾り職人の良人との間に二人の娘がいて、末の娘がお千香と同年であった。お千香が誕生の際、おみつは特に請われて、生まれたばかりの我が子を家に置いて、美濃屋に奉公に上がったのである。
おみつは、夕刻から翌日の昼過ぎまで暇を取っていた。お千香はここひと月ばかりずっとおみつと共に眠っていたこともあり、やはり心細さを感じずにはおれなかった。
その夜、お千香はなかなか寝付けなかった。早めに床に入ってみても、何故か眠れず悶々としている中に、いつしか微睡みに落ちたようだった。夜半にふと喉の渇きを憶え、眼が覚めた。
まだぼんやりとする頭で夜具の上に上半身を起こしたその時、枕許に人の気配を感じて、ハッと我に返った。
何者かがいる―。お千香は誰か人を呼ぼうと声を出そうとした。と、ふいに背後から大きな掌で口許を覆われた。
「静かにするんだ」
あろうことか、声の主は定市であった。
ゾワリと、背筋が冷たくなった。
一体、こんな真夜中に何をしに来たのだろう。不安と恐怖で身体が震えた。
お千香が無抵抗なのを勘違いしたものか、定市がそろそろと片方の手を動かした。いきなり胸のふくらみを包み込まれ、お千香は今度こそ悲鳴を上げた。
定市の手はなおも執拗に薄い寝間着越しに胸を触ろうとする。お千香は渾身の力で定市から逃れた。
「止めて下さい!」
こんな男には怯えた様を見せては駄目だ。本当は怖くてたまらなかったけれど、努めて平然としたふりを装い、強い語調で言った。 定市が口の端を引き上げた。
「今夜は威勢が良いな。この前までは、泣いてばかりいたのにな」
まるで馬鹿にしたような言い方に、お千香はムッとした。
「お部屋にお帰り下さい」
お千香が冷然と言うと、定市が肩をすくめた。
「ここは、女房の寝間だぜ。亭主の私が来たって、別段誰に咎められるとも思わねえがな。そろそろ女房の勤めを果たしてくれても良い頃だろう?」
「私は夜伽のお相手はできないと何度も申し上げたはずです」
お千香がきっとして言うと、定市が笑った。
「精一杯強がってみせても、震えてるぞ?
お前はやっぱり可愛いな」
お千香は悔しかった。この男に自分は端から馬鹿にされている。
「お遊びはここまでだ、世間知らずのお嬢さん」
口調がガラリと変わった。いつになく凄みのある物言いに、お千香は怯えた。それでも、怯えを悟られまいと、懸命に恐怖に耐えた。
唐突に抱き寄せられ、お千香は驚愕に身を強ばらせた。
「な、お千香。判ってくれ、お前に惚れてるんだ。ずっとお前だけを見てきたんだよ。黙って大人しく私のものになれ」
「い、いやーっ」
お千香は必死に手足を動かした。
「お前の身体、やわらかいなあ。それに、良い匂いだ。ずっと長い間、こうやって、お前を腕に抱く日が来るのを待ってたんだ」
耳許を吐息混じりの声がくすぐり、お千香は嫌悪感に寒気がした。
「放して」
お千香は死に物狂いで暴れた。その拍子に、何とか辛くも定市の手から逃れることができた。
「おみつ、来て、ねえ、おみつ」
混乱状態のあまり、おみつが今夜はいないことも忘れ果ててしまっていた。
「助けて、おみつ」
夢中で呟くお千香を、定市が薄笑いを浮かべて見ている。
「いつまでも、ねんねだな。乳母がいないと、そんなに心細くてたまらないのか」
まさかおみつがおらぬことを見計らって、定市が寝所に忍び入ってきたとまでは考えもしなかった。
お千香の我慢もそろそろ限界だった。
「おみつ―」
涙を溢れさせながら、隣の部屋へと続く襖に取りすがったお千香を定市が再び羽交い締めにしようとする。
「放してっ、触らないで」
お千香は泣きながら、定市の手を振り払った。
「良い加減にしろ。惚れた女だから、手荒なことはしたくねえと辛抱してるのが判らねえのか」
定市が焦れたように言った。
「来ないで。私に近づかないで」
作品名:夢の唄~花のように風のように生きて~ 作家名:東 めぐみ