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夢の唄~花のように風のように生きて~

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 だが、予想に反して、定市は端正な顔を怒りに染めていた。
「お前は、そんなに私が嫌なのか」
「え―」
 お千香は思いがけぬ相手の反応に、眼を見開いた。
「私から逃れるためには、生まれ育った家やこの店の暖簾を捨て去っても良いと思うほどに、私を嫌うのか」
 返す言葉もなかった。改めて指摘されてみれば、定市の言うとおりである。互いのため、定市のためと言いながら、実は、お千香はこの男の傍から逃げ出したい、ただその一心であった。むろん、我が身が退いた方が定市のためにも良いと考えたのは本当だ。しかし、その裏には、定市の執拗な視線の届かぬ場所へ逃れたいという想いがあるのは確かだった。
「お前は何か勘違いしている」
 定市の眼が冷たい光を放っていた。あの、お千香を押さえつけ、容赦なく着物をはぎ取った男の眼だ。
「私が欲しかったのは、この美濃屋の身代だけじゃねえ。いや、この店の身代なぞ欲しければ誰にでもくれてやる。私が本当に欲しかったのはお前だ、お千香。やっと手に入ったお前を私がみすみす手放すと思うのか」
「でも」
 声が震えた。
「私があなたの望むような女房にはなれないことは、旦那さまも既にお判りになったはずではありませんか」
 そう、二日前の夜、定市は誰よりもそのことを―お千香の秘密をよく知ったはずなのに。
「私がそんなことを気にすると思うのか?
お前はたとえ何があろうと、お千香に変わりはしねえ。私が丁稚の頃からずっと憧れていた美濃屋のお嬢さんさ」
 もし心底から惚れた男に囁かれた科白ならば、どんなにか嬉しいだろう。しかし、触れられるどころか顔を見るのも嫌な男に言われても、ただ疎ましいばかりであった。
―たとえ何があろうと、お前はお千香に変わりはしねえ。
 その科白こそ、亡き父政右衛門がお千香の良人となる男に望んでいたものであった。
 だが、流石に先を見通す力のある政右衛門も、お千香が定市を心底嫌い抜いているとは考えておらず、そこが大きな誤算であり、また悲劇の因(もと)となった。政右衛門がお千香の婿になる男に期待していたのは、お千香が生まれながらに抱える重大な秘密を知ってなお、お千香を変わらぬ愛で包み込める男だったのだ。
「お願いです、どうか私を離縁して下さい」
 お千香は手をついた。この男の前で涙を見せたくないと思うのに、また涙が溢れそうになっていた。
 うつむいたままのお千香に定市の無情な声が降ってくる。
「それに、世間知らずの娘がたった一人で世間に放り出されて、どうするってえいうんだ? どうせ、ここを一歩出たとたんに、さらわれて男どもの慰みものになるか、女郎屋に売り飛ばされる羽目になるのが関の山だぞ」
「―」
 あまりにも酷い言葉に、お千香は唇を噛みしめた。
「そんな辛い想いをする必要なんぞないじゃねえか。ここにいれば、お前はこれまでどおり何不自由のない暮らしもできる。私がお前を守ってやれる」
 あなたになんか守って欲しくはないのだ、一刻も早く、自由の身になりたいのだと叫びたかった。
「私は、私は―」
 お千香は夢中で言おうとした。
「自分の身くらいは自分で守れます。誰に守って貰おうなんて考えてもいません。仕事だって、ちゃんと自分で探せるし、一人で生きていって見せます」
「駄目だと言ったら、駄目だ。それとも、お前は私を本気で怒らせたいのか」
 定市の声には憤りが滲んでいる。心から怒っているのが判った。
「何故、判らねえんだ」
 定市がお千香の腕を掴んだ。
「人が大人しく下手に出てりゃあ、良い気になりやがって」
 口汚く罵りながら、お千香の手を強く引く。あまりの強さに、お千香は悲鳴を上げた。
「痛い―」
 が、定市は痛みに顔をしかめるお千香には頓着せず、お千香を引きずるようにして次のの間に連れ込んだ。そこは居間とは続きになった定市の寝室である。
「もう二度と出ていくなぞと言わせなくしてやる」
 烈しい力で突き飛ばされ、お千香は後方へ投げ出された。その拍子に腰をしたたか打ちつけてしまったらしく、鈍い痛みを腰に感じた。
「痛―」
 とうとう、こらえていた涙が溢れた。
 無意識の中に腰をさすっていると、定市が間近に来ていた。
「どうした、痛むのか」
 自分が手荒な扱いをしたくせに、猫なで声で聞いてくるのも余計に嫌だ。
「どれ、撫でてやろう」
 そう言って、ふいに腰から尻を撫で回され、そのおぞましい感触にお千香は叫んだ。
「止めて、私に触らないで」
 お千香はありったけの力を込めて定市の身体を押した。華奢な外見には似合わぬ力だった。定市が一瞬手を放した隙に、お千香は涙が零れそうになるのをこらえ、懸命にもがき、よろめきながら、やっと定市から離れた。
 後を振り返りもせずに襖を開けて居間をつっきると、部屋の外に逃れ出た。
 涙が堰を切ったように次々に溢れ出てくる。
 どうして、いつもこんなことになるのだろう。お千香は泣きながら、長い廊下を足早に走り去った。いつまでもここにいると、定市が追いかけてくるようで、無性に怖くてたまらなかった。
 自分の部屋まで漸く戻ってきた時、部屋の前で乳母のおみつが所在なげに行きつ戻りつしているのが眼に入った。
「おみつ」
 お千香は、おみつの懐に飛び込んだ。
「まあ、お嬢さま。いかがなされましたか?」
 小柄なおみつと、女ながら上背のあるお千香では、見た目は大人と子どもほどにも大きさが違う。だが、おみつは、お千香を抱きしめると、小さい頃によくそうしてやっていたようにトントンと背中を叩いた。
「お姿が見えないので、心配していたのですよ」
 お千香はひとしきり、おみつの胸の中で泣きじゃくった。二日前の夜のことは、おみつには話してはいない。心配させたくなかったのだ。
 しかし、今日だけは我慢できず、お千香は定市の仕打ちをおみつにだけは打ち明けた。
「まあ、ですが、それは先代さまのご遺志にも背くことではございませんか。旦那さまもそのことはご承知で、お嬢さまと所帯をお持ちになったはず」
 「そのこと」というのは、たとえ結婚しても、お千香とは夫婦の契りは叶わぬというものだった。
「それに、おみつ。今だから、お前にだけは正直に言いますが、あの方のことをどうしても好きになれないのです。私はあの方の眼が怖い。まるで蛇のような冷たい情け容赦のない眼に見つめられると、身体が竦んでしまう」
「お嬢さまは、旦那さまをお嫌いなのですね」
 念を押され、お千香は頷いた。
 おみつは小さな息を吐いた。
「お嬢さまのお心の内、このみつはとうに存じ上げておりましたよ。お小さい頃から、今の旦那さまをお見かけする度に、私の後に隠れておいででしたものね。正直、先代さまより旦那さまとのご結婚を仰せいだされた折、よくぞお嬢さまがご承伏なさったものだと思うておりました」
 おみつは、いまだにお千香を「ご新造さま」、「お内儀(かみ)さん」ではなく、「お嬢さま」と呼ぶ。お千香には、その呼び方がかえって嬉しかった。
「最初ははっきりとした理由もなく旦那さまを嫌う自分の方が悪いのだと思っていました。でも、おとっつぁんが亡くなってからのあの方のおふるまいを見ていたら、ますます、あの方が嫌になってしまいました」