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夢の唄~花のように風のように生きて~

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 が、嫌いな男にかき口説かれても、歓びよりは厭わしさが先に立つのは致し方ない。
―どうして、こんなことになってしまうの? お千香の眼からは大粒の涙が溢れ続けた。
「他のことなら何でもします。女房としての務めだって、何だってするし、私なりに良い奥さんになるように努力します。でも、これだけは許して。許して―」
「駄目だ」
 既に帯はすべて解かれ、定市の手は腰紐にかかっている。お千香は烈しく首を振りながら、もがき暴れた。
「助けて―、誰か、誰か」
 夢中で叫び助けを求め続けていた時、口に布をくわえさせられた。
「―」
 お千香は声にならない声を上げ、涙の溜まった眼で恨めしげに定市を見上げた。
 それからは、ただ衣ずれの音とお千香のくぐもった声だけが響いた。
 定市に押さえつけられたお千香の眼からは大粒の涙がとどまることなく溢れ、白い頬をつたった。
行灯のほのかな光が室内を照らす中、お千香の白い儚げな身体がぼんやりと照らし出される。その回りには、定市にはぎ取られた着物や襦袢、帯が乱れ散らばっていた。
 お千香の清らかな肢体を眼にした刹那、定市の顔に愕きの表情がよぎったが、それも瞬時に消え、魅入られたかのように呟いた。
「きれいだ。お千香、何てきれいなんだ」
 定市が恍惚として、お千香の裸身を眺めおろしていた。
 固く眼を閉じていても、その眼からは涙が溢れ続ける。お千香はあまりの恥ずかしさでその場から消えてしまいたかった。
―おとっつぁん。何で、私だけ置いて死んじまったりしたの? 私も一緒に連れて行ってくれれば、こんなに辛い思いをしなくても済んだのに。
 お千香は溢れる涙をぬぐうことすらできなかった。
 狂気を宿した眼で定市がお千香の裸身を食い入るように眺めている。
 行灯の火が消えたのは、まさにその直後であった。漆を流し込んだ闇が一斉に押し寄せてきて、室内が急に冷え冷えとなる。お千香はその無限の闇に呑み込まれそうな心許なさを憶えた。
 十六年の生涯で、本気で死んでしまいたいと思ったのは、これが初めてであった。
 お千香の地獄の日々が、こうして始まった。

 その二日後のことである。
 昼下がり、お千香は定市を探し歩いていた。丁度、定市は表で客の相手をしている最中であった。昼時とて、さしもの広い店内にも客の姿はまばらである。主の定市自ら応対しているのは、武家の奥方とそのうら若き娘らしかった。娘はお千香と同年配のようで、男ぶりも良い若い主人自身が丁重に品物の説明をしている傍で、うっすらと頬を染めている。
 他にも何人かの手代が反物をひろげて、接客をしていた。お千香は頬を上気させる娘を見て、ぼんやりと思った。
 もし、自分でなければ、定市を憎からず思う女は大勢いるだろう。定市はなかなかの男前だし、身の丈もある。真面目な働き者で、父政右衛門が見込んだだけはあり、商才も十分に備えている。多分、美濃屋は定市が六代目を継ぐことで、安泰だろう。
 しかし、お千香は、どうしても嫌なのだった。あの感情の窺えぬ瞳で見つめられただけで、背中に氷塊を入れられたかのように鳥肌が立つ。
 二日前の夜の定市は、どこまでも容赦がなかった。定市の前で、あられもない姿を晒し、その執拗な視線で全身をなめ回すように眺め回されたことは、お千香にとって耐え難い恥辱だった。すべての動きを封じ込められていたから、抵抗らしい抵抗もできないまま、ただ、なされるがままになっているしかなかった。
 あの夜以来、お千香はもうあの男と同じ屋根の下にはいられないと考えている。
 お千香の視線に気づいたのか、定市が立ち上がった。後ろに控えていた手代の一人を手招きし、武家の母娘の応対を代わらせると、自分はお千香の方に向かって真っすぐ歩いてくる。定市を見て頬を染めていた娘の方があからさまに落胆の表情を見せていた。
 定市は何を言うでもなく、先に立って歩いてゆく。磨き抜かれた廊下を幾重にも折れ、奥向きに入った。ここから先は美濃屋の家族が起居する棟になり、使用人が暮らす場所や表の店舗とは厳然と隔てられている。
 歴代の当主が使う主部屋はつい最近まで、父の政右衛門が暮らしていた懐かしい場所でもあった。が、今では六代目当主となった定市が起居している。父が健在であった時分はお千香もしばしば訪れていたものだったけれど、今となっては来ることもない。
「珍しいな。お前の方から私に用事があるとは」
 その現在は定市の私室である主部屋まで来ると、定市は幾分皮肉げな口調で言った。
 お千香は定市より少し距離を置いて、下座に座った。定市の顔を見ていると、先夜のあの忌まわしい記憶が嫌が上にも蘇ってくる。
 この男に何もかも見られていたのかと思うと、恥ずかしさで身も世もない心地になった。
「お願いがあります」
 お千香は両手をついた。
「ホウ、改まって願い事とは何かな」
 今日の定市は、どこまでも穏やかだ。二日前の夜に見た冷酷な男とは別人のようでさえある。
「何か欲しいものでもあるのか?」
 優しい物言いに、お千香は一瞬、眼前の男がこの前、自分を辱めた男だとは信じられなかったほどだった。
「私を離縁して頂きたいのです」
 ありったけの勇気をかき集め、ひと息に言うと、定市の眼が光った。
「私に出て行けというのか?」
 定市の眼が剣呑な光を帯びている。
 気味の悪いほどの静けさが十畳の広さはある小座敷に満ちていた。
 定市が立ち上がり部屋を横切り、庭に面した障子戸を開けた。縁づたいに庭に降りられるようになっており、小さいながらも風情のある小庭が一望できる。
 定市は縁側に佇み、庭を眺めていた。寒い日が続いたせいか、二日前の夜、一晩中降り続いた雪は今もまだ庭にうっすらと溶け残っている。片隅にある南天の樹の紅い実が眼にも鮮やかであった。
「私は先代の旦那さまがお決めになった、れっきとした美濃屋の主だ」
 定市は庭を眺めたまま、固い声で言った。
 お千香は、すかさず言った。
「それは十分存じております。ですから、私はあなたに出て行って欲しいなぞとは申しておりません。私が美濃屋を出ます」
「何だと?」
 定市が愕きもあらわに振り向いた。
「私は、旦那さまに対して何の役にも立たない人間です。私がここを出て行けば、旦那さまも新しい奥さまをお迎えになれるでしょうし、それがいちばん良い方法だと思うのです」
 この二日間、お千香なりに考えて出した結論であった。定市は美濃屋の主としても不足はない。だが、自分には定市の求める妻としての役目を果たすことはできない。お千香さえ美濃屋を去れば、定市はまた別のふさわしい女を後添えに迎えることができる。
 お千香は先刻の武家の娘を思い出していた。応対する定市の顔にうっとりと見惚れていた娘を見る限り、世の中の若い娘の大部分は定市のような男を好もしく思うものなのかもしれない。いや、あの娘だけではなく、美濃屋に仕える若い女中たちの中にも定市が手代頭であった頃から想いを寄せる女は少なくはなかった。
 恐らく、お千香は世の娘たちとは少し違っているのだろう。自分が美濃屋を出ることが、定市にとっても最も望ましい道だと思えたのだ。