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夢の唄~花のように風のように生きて~

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 思えば、お千香が恋に憧れるようになったのは、その頃からだろう。おみつが歌う子守唄のように、父や母のように、いつか年頃になれば素敵な男が現れ、恋に落ちるのだと信じていた。そして、二人は結ばれる―。
 しかし、あの子守唄を聞きながら、文字通り夢の世界、眠りの世界へと誘(いざな)われていった幼き日はあまりにも遠くなった。今のお千香は、それが所詮は叶わぬ夢であることを知っており、親の言うがままに夫婦(めおと)となった形だけの良人がいる。
 だが、こんなときには、おみつがこれまでのように傍にいてくれたならと、つくづく思わずにはおれない。
 こんな夜更けに奉公人が起きているとは考えがたいけれど、少なくとも、これで定市と一つ部屋にいるのを回避はできる。もう少し早い時間であれば、女中が厨房にいたかもしれないが、わざわざ茶を淹れるためだけに真夜中に起こすのは躊躇われた。
 お千香には、このような優しさがある。たとえ奉公人相手といえども、けして無理難題を言ったりはせず、幼い頃から自分でできることは自分でするように躾けられて育ってきた。
「待ちなさい」
 腰を浮かしかけたお千香を制して、定市は両手を膝の上に置いて座り直した。定市の髪は黒一色というよりは、やや茶色がかっているのが特徴的だ。陽に当たると、殊にその色が際立つ。行灯の火に照らされた茶色の髪が、後ろの唐紙障子に複雑な翳を作っている。
「私はお前の淹れてくれたお茶が呑みたいんだ」
 お千香は押し黙った。
 火鉢の傍らには、盆にのった急須や湯飲みが常時備えられている。お湯が沸けば、ここですぐにお茶を淹れることができるのだ。そのことに気づいていないわけではなかったが、定市と二人きりで部屋にいるのが嫌だったのだ。
 お千香が何も言えないでいると、定市が静かな声音で言った。
「それとも、私のためにお茶を淹れることはできないとでも?」
 その声は静かすぎるほど静謐で、かえって不気味であった。だが、口調の静かさとは裏腹に、定市の双眸は鋭すぎる光を放っている。
「判りました」
 お千香は良人の言葉に仕方なく腰を下ろした。
 お茶を淹れようとして、まだ鉄瓶のお湯が沸いていないことに気づいた。火勢が弱まっているようで、あまり温かくない。我に返ってみれば、あれほど温かかった部屋の中の空気もわずかに冷たさを含んでいる。
 お千香は部屋の内の温度が急激に下がったように感じられ、かすかに身震いした。
 定市がお千香をじいっと見つめている。冷たい光を宿したこの眼がお千香は昔から大の苦手だった。まるで狩人が狙った獲物を値踏みしているような酷薄な光を宿した眼に本能的な恐怖を抱かずにはおれなかった。
 気づまりな沈黙が部屋中に満ちていて、お千香はその重たさに息苦しさを憶えた。定市のくちなわのような眼を怖い、と思った。この男の何を考えているか判らぬ得体の知れなさが怖い。
 それにしても、今夜の定市は妙であった。いつもから冬の空のように冷めたまなざしがいっそう冷え冷えとしている。
 しばらく静かすぎる時間が流れた。
 漸く鉄瓶が白い湯気を上げ始め、お千香は傍らの盆を引き寄せた。だが、湯飲みを持つ手が小刻みに震えて、上手く持つことさえできない。
「どうした、寒いのか、震えているぞ?」
 定市の口調には、どこかこの状況を面白がっているような気配さえある。
 当人の前であなたが怖いのだとは言えず、お千香は震える手で作業を続けようとした。
「まるで化け物を前にしているような怖がりようだな」
 定市が苦笑いを浮かべた。
「そんなに寒いのなら」
 と呟き、お千香の傍らに歩いてくる。
「こうして温めてやろうか」
 突如として引き寄せられ、お千香は呆気なく定市の腕の中に倒れ込んだ。
「い、いや」
 お千香は突然の予期せぬなりゆきに狼狽え、抗った。
「止めて下さい」
 強い語調で抗議しようとしたのだが、現実には相手を咎めるというよりは哀願する口調になってしまった。
 だが、定市は圧倒的な力でお千香をを抱きしめてくる。
「あなたは父の言いつけに背かれるつもりですか? 私は、あなたのお相手はできない身です」
 お千香は懸命に抵抗しながら言った。
 恐怖と悔しさで涙が溢れた。
 父さえ生きていれば、奉公人上がりの定市にこんなふるまいをされることもないのに、と今更ながらに頼りとする父を失った我が身の寄る辺なさを思い知らされた。
 亡き父―先代の名を持ち出せば、定市の思わぬ行為を止めることができると考えのだ。
 けして夫婦の交わりは叶わぬというのは、美濃屋の先代政右衛門の遺言ともいうべき言葉であったゆえ、よもや定市が背くとは思えなかったのだ。これで、定市の一時的な逸る心を冷静にさせ得るのではないかと期待した。
 が、笑いを含んだ声が耳許で囁く。
「心配には及ばねえ。今夜、私はお前をどうこうしようと考えてるわけじゃない。だが、一つ頼みがある」
 涙の滲んだ眼で見つめると、定市が薄く笑った。
「お前の裸を見たいんだ」
「―」
 お千香は信じられない想いで定市を見返した。
 定市の眼は何かに憑かれたような異様な光を帯びている。
「先代の旦那さまは、確かにお前には夫婦の交わりはできねえと仰せになった。しかし、身体を見せるくらいなら、できるだろう?
私はこれからの長い生涯、お前に指一本触れることもできねえんだ。せめて裸を見るくらいは許されても良いんじゃねえのか」
「気は確かですか」
 問い返すと、定市は嗤った。
「生憎と、哀しいほどに気は確かだぜ」
―この男は狂っている。
 お千香は、ちりちりと恐怖が身体を這い上がるのを感じた。
「な、帯を解いて着物を脱ぐだけで良いんだ。簡単なことじゃねえか。何も難しく考えることはねえ」
「いやです。絶対にいやです」
 お千香は烈しく首を振りながら、怯えた眼で定市を見た。
 刹那、両手をまとめて掴まれ、お千香は悲鳴を上げた。定市が荒々しくお千香をその場に落し倒した。そのまま上から覆い被さられ、お千香は手脚を必死で動かし暴れた。何とか定市から逃れようと渾身の力で抗ってみたけれど、定市の逞しい力で押さえつけられていては、所詮、ビクともしない。
「誰か来て、助けて。いやっ」
 お千香は泣き叫びながら暴れた。
 その間も定市は器用に手を動かしている。片手でお千香の両手を掴んで一切の動きを封じ込める一方、もう一方の手でお千香の帯をするすると解いていった。
「いや、誰か、お願い」
 泣きじゃくるお千香の顔を覗き込み、定市が幼子に言い聞かせるように言う。
「な、怖がることはねえ。ちょいと身体を見せてくれるだけで良いんだ。何もしないから、頼むから大人しくしていてくれ」
「定市さん。こんなことは止めて。お願いだから、止めて!!」
 お千香は泣きながら訴えた。
「お千香、俺はずっとお前のことを好きだったんだ。お前は使用人にすぎねえ俺のことなんぞ端から眼にも入ってなかっただろうが、俺はこの店に来てから、お前だけを見ていたんだぜ。それが、所詮は高嶺の花だと諦めていたお前を手に入れることができたんだ。何もしねえでいろなんて言われても、できるはずがねえ」
 お千香は驚愕して定市を見つめた。