色即是空
「なに言っているのよ、哲のほうが先輩じゃないの。少年時代から仕事して、自分で生計を立ててきたのだから」
真理子は、その点で哲にひけ目を感じている。
―自分は、母のすねをかじって生きてきた。母に反抗しているけれども、母からの金銭的援助に頼っている矛盾した存在なのだ。大学だって、その援助のおかげで卒業できたのだから、哲に比べると、中途半端な生き方をしている。バイトで得たわずかな収入で当座の生活は糊塗してきたけれど、自立していると胸を張っていえるものではない。この家だって、母が送ってくれたお金で購入したのだ―
真理子には、自分の行動が、母に対する甘えから生まれているのだという反省のような感情もある。
「哲は、これからどうして生きるつもり? フリーターなんか辞めて、彩子の会社に就職させてもらったらいいのじゃない? 営業の仕事なら回してくれるかも」
真理子は、哲と二四時間一緒に暮らすことには乗り気でなかった。
「考えてみるよ。真理子さんの仕事も手伝いたいしね」
哲は、あいまいな返事で、逃げようとしている。哲の心はまださだまっていないのだ。
真理子の生活は、このことがあってから、大きな変化を見せた。それまで頭痛に悩まされていたのが嘘のように収まって、真理子は朗らかに哲と共同生活をしている。
二人が選択した生活スタイルは、契約同居というもので、すべてのことを契約で決めて、反則すれば罰金を払うシステムである。その理由は、あいまいな合意であれば、お互いの感情しだいで行動が左右されるから、不分明な理由で、お互いの自由と独立が侵される危険があるので、合意は事前に契約によって確認すべきだということにあった。
この契約同居を積極的に主張したのは真理子である。真理子は哲の性格はルーズで、何事もあいまいなままに時々の気分で決めてしまって、結果に責任を感じない傾向があることを懸念していた。
哲が真理子にすがり付こうとする感情を持っていることを、真理子はもっとも警戒していた。もし、それを許せば、自分は母と同じような結果を招くかもしれないという、自分自身に対する恐怖もあった。
―哲は、わたしの言うとおりに動くだろう。そのことで、哲は自分を満足させるに違いない。それを許せば、哲はわたしにまとわり付く厄介な存在になる。そうなれば、わたしのほうから哲と別れることを望むようになるだろう。そういう結末は、絶対迎えたくない―
真理子は、契約によって、そのような危機の到来をあらかじめ封じておきたかったのである。
哲は週に三日は東京都心で働き、残りの三日は真理子の仕事を手伝う。日曜日には自由タイムを楽しんでいる。都心に出たときには彩子と出会う。
「真理子は、その後変わってない?」
「朗らかになりましたね」
彩子の問いに哲は丁寧に答えている。
「仕事は捗っているの?」
「僕の?」
「いやだなあ、真理子のことに決まっているじゃないの」
「失礼しちゃった。僕のこと聞いてくれたのかとおもって」
「哲君のことは心配しないよ。いつだって好きにやっているのだから」
「そうでした。僕は悩み事などないですからね」
「マイペースなのだから。何かでっかいことやりたいから、そんなに自由に生きているの?」
「そうでもないですよ、組織に拘束されたくないので、正社員にならないだけですよ。請負仕事が性にあっているのかなあと思います」
「時間を売るのじゃなくて仕事を売るってわけね」
「フリーライターかアートデザイナーで食っていければいいのですが」
「真理子と組んでやれば、チャンスがつかめるかもよ。彼女には出版社がついているから」
彩子は、自分ながらいい思い付きだと、目を輝かせていた。
「真理子さんが、うんといってくれるかな?」
「わたしにまかせなさいよ、真理子をその気にさせるよ。彼女も哲君を必要としているのだから」
彩子には、真理子が哲を頼りにしているという確信のようなものがあった。真理子が父を捜し求めるのに付き合ってきた彩子は、父に対する憧れのような感情が秘められているのを感じていた。それが、哲に影を落としていると彩子は察している。
「契約同居だってね。それって、真理子のギリギリの自己防衛なのよ。いつの間にか、哲君と一線を越えるような関係になることを警戒しているからじゃないかなあ」
彩子の言葉に、哲が驚いた。まさかであった。
「真理子さんが、そんなこと思っているとは、信じられないですね。僕にもそんなきわどい気持はないですよ」
哲は真顔で抗弁した。
「哲君が気付いていないだけよ」
彩子は笑った。
彩子と哲の会話は、真理子の父捜しが、彼女の体内ではなお続いているという認識で一致した。それを否定しようとしている真理子自身が自分と格闘しているので、真理子の精神が不安定になり、頭痛を誘発するのだと彩子は言う。
「真理子を救ってあげられるのは、哲君、あなただけだと思う。真理子は、それをあなたに訴えている。真理子の心に自由を与えることができるのは契約という客観的な関係を哲君と結ぶことだと思うよ。だらだらと恋愛関係になってしまったら、真理子は破滅してしまうでしょう。それは真理子が嫌悪しているオスとメスの関係に堕ちることだから」
彩子は、真理子の心情を推測していた。
「僕はどうすればいいのかなあ」
彩子の言葉に哲は戸惑っている。
「迷うことないでしょう。哲君自身が、強くなればいい。真理子に寄せる男の気持を断ち切ることね。姉弟なのだから」
彩子は哲の心を見透かしている。哲が本気で父親を真理子に会わせる努力をすれば、会いたいと思ってはそれを否定する真理子の心を開かせて、会いたいと思う心一色にするだろう。彩子はそれを期待している。
「真理子の描く絵は暗すぎるよ。暗闇で猫をいじめているような絵を描かなくなれば、真理子が立ち直ったと言えるでしょう。哲君が傍にいて、その変化を作り出すようにすればいい。そのためには、躊躇しないで、お父さんを捜し出しなさいよ。わたしも協力するから」
彩子は、哲の背中を押している。
「そうですね」
哲は、ためらいながらだが、肯定的な反応を示した。その様子には、自分の中の何かを払いのけたい感情が動いているようだと彩子は感じている。
哲は、捜したくないと半ば思っている父の消息を手繰り始める。母を捨てた父を憎んでいる哲と、母に捨てられた父に憐憫と憧憬の複雑な気持を抱いている真理子が、共通の父に出会うことが、二人にとっての人生の再出発になると、彩子が説得したのである。
真理子は、いったんは父捜しを断念したが、そのことがかえって真理子を鬱状態に追い込んだことを、彩子は知っていた。真理子の心の奥深いところに父への思慕が沈潜していて時々、噴火したように凶暴になると、医師は彩子に告げていた。
その症状が深刻になると、真理子は人と会うことを拒否し、怒りをぶちつけるように、画架に向かって感情を表白する。その画面には猫が描かれている。医師はその画面から真理子の深層心理を分析して、彩子に療養のアドバイスをしたのである。