色即是空
「哲君が真理子の弟なんて、本当のことなの?」
散らかった部屋に無造作に座り込んだ三人は、真理子の出生をめぐって話しの花を咲かせている。
「哲の思い過ごしなのよね。わたしの父は確認できてないのだから、二人が姉弟だとは信じられない、しかし、否定もできないでしょう。あのオスはメスに見境がなかったらしいから」
真理子は掃き捨てるように言う。
「でも、特定できる証拠があるのでしょう。哲君」
彩子は、哲に返事を促した。
「秘密にしたいな」
哲は渋っている。それが、結局は答えたことになっているのだが、特定の証拠を挙げていないので、秘密にしたと哲は勘違いしている。
「証拠があるってことね。だったら、哲君は真理子のために父捜ししてあげるべきよね。真理子は頼まなくても、あなた自身の問題でもあるでしょう」
彩子は責め立てるようだった。
「彩子、ありがとう。でも、わたしは忘れることにしたの。両親のことにとらわれていたら、自分が惨めになるだけだっておもうようになったから」
真理子は、二人といるので、気分があかるくなったようだった。
「そうね、真理子らしく明るくならないと駄目よ。この猫屋敷の絵は暗すぎるよ。心療内科にかかったらって、言いたいくらいよ。メールで、真理子の異常な心理に気付いたの。あなたのメールにはSOSが発信されていたようにおもった。哲君に、そのことをいって、一緒に来てもらったの。アポを取ればことわることがわかっていたから、突然来たのよ。やっぱり、心配したとおりだった。この絵を医者に見せて診断してもらいなさいよ」
彩子は、訪問の核心に触れた。
「心配させたのね。あのメールは、救いを求めるような気持だったから、誇張していたかもね。今日は気分がいいの。二人が来てくれたからかも知れない」
真理子は素直に聞き入れている。
「哲君、あなた、真理子のアシスタントになってあげてよ。姉弟だったら、できるでしょう?」
彩子の突然の話に、狼狽したのは哲だった。
「それでいいでしょう、真理子」
彩子に促がされた真理子は、
「哲が、OKなら、わたしはいいよ」
と、哲を見た。
「これできまりだ。わたしも、時々、寄せてもらうわね」
彩子が真理子に承諾を促がすようだった。
「いいわよ、彩子とおしゃべりできるから」
真理子の顔があかるくなった。
「来てよかった。真理子がこんなに素直に受け入れてくれるとはおもっていなかったから、吃驚しちゃったなあ。心療内科のこと、言っていいかどうか心配だったの」
彩子は、ここに来る前に、真理子のメールを見せて、心療内科の医者と相談したことは伏せていた。
真理子は、彩子の勧めを受け入れて、哲に仕事を手伝ってもらう気持になっていた。
「一人でいるのもこれでよそうかなあ。哲がきてくれれば、気がまぎれて、鬱にならないで済むだろうからね」
彩子に話しかけた真理子は、明るくなっている。
「真理子には話し相手が絶対必要なの、哲君もその気だし、二人が一緒にいれば、わたしも安心だから、わたしのためにもそうしてよ」
彩子は、真理子の気持を引き出すようにしていた。哲は真理子を慕っているし、真理子も哲に親しさを感じているのだから、同居生活は上手く行くだろうと、彩子は思っている。
「姉と弟なのだから、助け合うのが当然でしょう。誰に遠慮することもいらないよ。これまでも、哲君は、真理子のためにつくしてきたじゃない。それを継続すればいいのよ。そうでしょう、哲君」
彩子は哲の気持を察して、代弁するようだった。
「僕に異存はないよ。真理子さんがそれでよければ、僕はここに移ってくる。僕も一人でいるよりは楽しくなるからね」
哲が乗り気になっている。
「哲がそれでいいのだったら、来てくれていいよ」
真理子は、最終的に決断した。これは真理子の変心を示している。これまでの生活に疲れた真理子の切羽詰った選択だった。その裏には、自分の健康に自信を失った真理子の不安が漂っている。
「これで決まり、心変わりしちゃ駄目よ、真理子」
彩子が真理子の肩を叩く。真理子の顔が明るくなっているのを確認した彩子は、ほっとしたようだった。
真理子の症状は、医者の話によると、幼いころから蓄積した不安が原因で、神経症を引き起こし、精神安定剤を常用することで不安を抑制している状態だという。それに間歇的に起きる頭痛を抑えるために鎮痛剤も服用しているが、副作用で体の他の部位が犯される危険があるので、長期間服用する場合にはチェックが必要だということであった。
彩子は、真理子の症状を治すためには、薬で抑えるだけでは駄目だと思っている。それで、哲に相談を持ちかけて、真理子を救う手立てを考えた。それにはまず、真理子の閉ざされた心を開くために、哲が真理子の傍に居て、肉親の温かさを伝えることが一番いいということになったのである。
この日は、哲が真理子の家に移ってくる段取りを決めてから、彩子と哲は真理子の家に泊まることになった。夕食の支度は三人が分担し、ダイニングキッチンはにわかににぎやかになった。これは彩子が言い出したことで、真理子の気持をやわらげようとする意図を秘めていたのである。
「ジンギスカンにしよう」
という彩子の提案で、羊肉パーティになった。羊肉の買出しは哲が引き受け、野菜類は真理子が用意し、彩子は調理を担当した。
彩子は、真理子の心の負担を和らげるために、食事を共にすることと、語り合う機会を持つことが大切だと思っていた。
「月に一度は、真理子のこの家でお食事パーティしましょうよ。お仕事の相談もかねて楽しくお喋りすれば、真理子も楽しくなるでしょう」
彩子の提案に真理子も賛成した。
「心配かけてすまないわね、哲が来てくれれば、それだけで十分だけれど、月に一度は彩子に会えると思えばいっそう嬉しい」
真理子が明るくなっている。
「僕も、彩子さんに会いたいからね」
哲が話の中に入る。
「真理子とわたしのどちらがお好みのタイプかなあ?」
彩子が茶化した。
「このお肉、おいしいわね、いくらしたの?」
真理子が尋ねる。
「百グラム、千円だった」
哲の返事に、
「高いわね」
真理子が驚いたように大きな声を出した。
「はりこんだのね。真理子の激励パーティだから、哲君」
彩子が笑った。彩子の計らいで姉と弟が再会したのである。真理子も哲も姉弟だということに半信半疑であるのだが、血は水よりも濃いということが半ば証明されたような雰囲気だった。
真理子と哲の暮らしは、独立採算制とも言うべきもので、お互いの生計は独立し、勘定は別々であった。
「哲とわたしは、競争しましょう。仕事で自分を試しあうことが励みになれば、わたしの病気も消えてくれるかも知れないでしょう。内臓はどこもわるくないのだから、精神を安定させればいいと思うの」
真理子は、哲と同居するようになってから、少しずつ気持が落ち着いてくるのを感じていたのである。だから、仕事に集中できるだろうと自信をとりもどしていた。
「真理子さんは、仕事の先輩だから、僕にアドバイスしてくださいね」
哲は、甘えるようだった。