色即是空
このアドバイスをうけてから、彩子は積極的に真理子の生活にかかわる決心をした。真理子の心から「猫」を取り除いてやらないと、真理子は精神的障害から衰弱して死んでしまうかもしれないと彩子は気がかりでならない。
そこで、真理子を父といわれる人物に会わせて、真理子の心に住み着いている幻想を払いのけようと、彩子は哲の祖母に会うことにした。この祖母ならば、「父」にまつわるすべてを知っているだろうと、彩子は事件解決のめぼしをつけたのである。
そのためには、まず、哲を祖母宅に伺わせ、訪問の趣旨を伝えてもらうのが、最初の糸口になると、彩子は哲にこの意図を説明した。これは、哲が主導的に行動することで、哲自身の決心を固めさせ、自分自身の問題の解決に乗り出す勇気を持つことになるとも思ったからである。
哲の祖母は、柳の風が吹く中で、娘・隆子の生涯をゆらゆらとたどりながら話した。
「あの子は、一途にあの男を慕っておった。それはいじらしゅうて、見ておれぬくらいだったけ。止めろ、止めろと何度いったことか、あの男は不実だと、わしは、見抜いておったからよ.案の定、隆子とお前を捨てて、あの男は消えよった。そんな男でも、哲にとっては、父親だ、会いたい気持もわからんではないさ。わしの、知っているかぎりでは、あの男は、東京に居よる。古い手紙の住所だが、役所でたどってゆけば、今の居所がわかろうよ」
祖母の話に聞き入っていた哲は、ある思案を浮かべていた。警察も区役所も便りにはならないが、業界筋だったら知っているかも、この古手紙の筆跡を見せれば、知っている人がいるかもしれないと哲は思った。
それに、哲には、幼いときに別れた母のイメージがほとんどないので、祖母の話からそのイメージを作り出そうと、哲は母の特徴を細かく聞きこうとしたのだが、祖母の話は散漫で、パッチワークするのに骨が折れる。
手紙にあった真理子のことは、同座していた彩子が、自分の知っている真理子と同一人物であることを確かめるべく、父らしい男の風貌や言葉使いを、祖母にしつこく尋ねたが、祖母の記憶はあいまいだった。
これだと、この男と真理子のDNA鑑定でもしなければ、確かなことはいえないだろうと、彩子は半ば失望していた。だが、これであきらめてはいけないと、これからも、祖母の記憶を呼び覚ますために、再三繰り返して訪問しようと思っている。
「これは隆子の若いときの写真だが、あの男とまだ一緒にいるかも知れんから、出会ったら渡してやってくれ」
別れ際に、祖母は隆子の写真を彩子に預けた。
「高校を出たときの記念写真じゃ。この写真を撮ってからまもなく、隆子は東京へ出た。それから帰ってきたのは、哲を預けに来たときだけだった。あの手紙は、あの男が隆子に持たせて来たのじゃ。自分は挨拶にもこなんだ」
祖母にはうらみがこもっているようだった。
「あの男に会ったことは一度もない。隆子は、椎名さんとか呼んでいたが、あの男の名前なんか口にもしとうない。隆子はあの男の何処に惚れたんかのう。隆子の父親が亡くなったのは、隆子が六つのときだった。あの男に惚れたんは、父親の代わりを求めたのかも知れんなあ。不憫な子じゃ」
祖母は涙ぐんでいた。
「わしの育て方が間違っていたのかと思うと、残念でならん。子供には父親が必要なのだと悔やまれるばかりじゃ。真理子さんという人も、父親を捜しておられるのじゃろう。はよう、突き止めてあげなされ。哲とて、同じ思いだろう」
祖母は、孫の哲をしみじみと見つめている。彩子はその情景に心を打たれた思いで、家族の絆を捨ててしまうことの無残さが身を引き締めるようだった。
真理子は、哲や彩子が父捜しをすることに賛成ではなかった。彩子が再び訪ねて来たとき、意外なことを言った。
「私は、シングル・マザーを理解できるようになったの。母の気持がわかるようになった。母は、自分らしい人生を生きるのに、男を必要としなくなった、それで私の父と別れた。男がわずらわしくなったのでしょう。彩子は、いつか言ったことがあるでしょう。生殖医療の進歩で、二人の父と三人の母を持つ子が生まれるって。その子にとって親は、育ての親だけが認知できる親で、精子や卵子を提供した親も、妊娠した母も、わからないようにされている。それならば、血のつながりのある親だけが親ではないのだから、血のつながりのある父を捜したり、血のつながりのある母に反抗したりすることは野暮なことと思うようになったの。だから、私の父を捜すのはもう止めてよ。私は、父母から独立して生きてゆける。これまで、心配をかけてすまなかったわ、ごめんね。哲とも、友達として付き合ってゆくつもりだから、安心してくれていいよ」
彩子は、不思議な気持に襲われた。
―真理子の心境の変化はどうして起きたのだろう。哲君や私の動きに不快感や警戒心を持ったのだろうか、そうだとすれば、何故だろう―
彩子は祖母の顔を思い浮かべている。真理子は哲の祖母から何か聞いたに違いない。
真理子は、彩子の想像したように、哲の祖母宅を訪れ、椎名のことを詳しく聞こうとしたが、祖母の記憶はあいまいで、祖母が椎名と会ったことはないということだけが確かであった。祖母が話したのは、もっぱら、隆子の思い出ばかりで、真理子にとってはどうでもいいことだった。
真理子はうんざりとしながら聞いていたのである。そのとき、真理子を仰天させる言葉が祖母の口から飛び出した。
「あなたは、椎名と隆子の子だが、菜穂子さんは、椎名と結婚していたから、面子にかけて、あなたを引き取り実子として育てられたのよ」
一瞬、真理子の血の気が引き、声を失った。
「菜穂子さんは気丈な人だ。隆子に愚痴一ついわなかったと、隆子から聞いた。椎名は菜穂子さんに追い出されたのではなくて、隆子と一緒に暮らしたければ、そうなさっていいと、いわれたそうだ。こうなったのは、私が夫をかまわなかったからで、私の罪だといわれたと、隆子は言っていた。普通の女にできることじゃあないよ。それに引き換えて、椎名という男は、屑のような人間だ、哲の養育もしないで、わたしに預けた。隆子もだらしないけどね。あんな男の何処がいいのだろう、私の育て方が悪かったとあきらめてはいますがね」
祖母は、自分をせめているようであった。真理子は愕然とした思いで祖母の家を後にした。そのとき、真理子に新しい決断が生まれた。
―これまでの自分と別れよう。出生の秘密を知ったのだから、母に逆らう理由はなくなった。母は女の意地を通して、他人のわたしを実子として育ててくれたのだ。このことは、母にとってもわたしにとっても守るべき秘密だ。一生口外しなのがいい。祖母も哲には言わないと誓ってくれた。これでわたしは出直せる―
この思案にたどり着いた真理子は、身辺の整理を始め、哲とも別れることにした。
「体調もよくなったし、気分も爽快だから、鬱病はどこかへ飛んでいったみたい。この際、ここを引き払って、渋谷へ戻るよ」
真理子は、哲と夕食をしているときに、突然言い出したのである。哲は愕いて箸を置いた。真理子は真顔で哲を見ている。