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色即是空

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 真理子は単純労働を軽視していた。しかし、自分が、とんでもない落とし穴に落ち込んでいたことに気付いたのは、医者から、「単純労働ではなくて複雑労働でしょう」と忠告されたときだった。
 作家へのチャレンジをしている真理子は、自分が取り組んでいる仕事の意味を改めて確認するチャンスに立たされていた。
―これまでは、生活費を稼ぐためのバイトの気安さで、雑文を書きなぐってきたが、そろそろそれは卒業すべきときだ。自分の人生にとって意味のある仕事は何かを考えねばならない―
 真理子が猫騒動に悩まされたのは、ちょうどこのときであった。母譲りの天分の才能に寄りかかっていた自分を見つめなおす機会を、頭脳疲労というやまいによって与えられたのである。
 山猫たちが襲ってきたときに、猫の襲撃で簡単に倒れてしまったのも、神経が極端にすり減り、頭痛を抱え、体を自由に動かすことができなくなっていたからである。
 郊外への移転で、新しい生活を始めていた真理子は、哲のことも忘れ、父親捜しからも自らを解放し、仕事に専念したのだが、想像もしない病にとりつかれていた。

 山猫の襲撃とマヤの失踪で疲れきったことを真理子は自覚していたが、それが仕事の疲れと重なって、症状を重くしていたことをさほど気にとめなかったために、めまいで倒れることになった。
 こういうときは、一人暮らしは厄介である。助けてくれるものが傍にいない。猫のカーヤは、真理子の様子が怪しいので、寄り添ってきては様子をうかがっていた。そして時折、ちいさな鳴き声をあげる。
 真理子は締め切りの迫った原稿を書き上げるために、間歇的に襲ってくる頭痛を飲み薬で抑えている。
―畜生、こんなことでまいってたまるか、やり遂げるまで休まないよ―
 真理子が身につけた根性は、シングル・ライフの強みでもあった。他人には頼らないで生きるという覚悟が、真理子を強くしていたので、少々のことにはへこたれない。だが、病には勝てないという言葉があるように、いかに気丈でも、体を蝕まれると、気と体のアンバランスが、悩みを引き起こしてしまう。
 真理子はその悩みに苦しんでいる。それは不安症候群を誘発してあらぬ妄想まで引き出すことになる。真理子はパソコンのキーを打ち込みながら、原稿の中に妄想を入れ込んでいる。

 真理子は、頭痛が間歇的におきるなかで、正常な判断が狂いそうになる経験を何度かしている。極度な緊張が襲ってきて、激しい感情に曝される。
―わたしをこの境遇に置いた人間をゆるさない。家庭を築かなかった両親は、性行為をした動物に過ぎない。わたしを天涯孤独の境地に陥れたのだ。自分たちだけが勝手な行動をして、自分たちだけの自由のために子供を捨てている。子であるわたしが、この二人に復讐をして当然ではないか。殺してやりたいくらいだ―
 極端な気持に走る自分を抑えきれないように、真理子は復讐の計画まで思案している。子猫カーヤを膝に乗せながら、真理子は机上の紙に殺戮の戯画を描いて、ストーリーを付ける。猫のぬくもりが真理子を刺激し、興奮が高まる。その目は猫が攻撃を仕掛けるときのように光っている。真理子は、その戯画を夢中で書き続ける。それは作品の製作に熱中する作家の姿勢そのものであった。
 真理子が描いているものは、山猫の襲撃場面を再現したものになっている。親猫たちを攻撃しているのは子猫のカーヤである。自分がカーヤに化身したかのように描いているのである。そのことに真理子自身が気付いているようではない。真理子の筆を運ばせているのは、怨念のようで、真理子は別人のようになっていた。
 真理子が極度に緊張していることを感じとったように、子猫のカーヤは、真理子のひざに噛み付いている。それが合図のように、真理子の筆が運ばれる。真理子の描いているのは、猫屋敷の乱闘である。親猫に立ち向かう子猫が、圧倒的な気力で襲い掛かると、親猫は逃げ惑っている。親猫には想像できない事態が発生したのである。真理子の幻想は、親猫を追い詰める子猫の跳躍を描くことで形をあらわしている。真理子が経験した猫騒動が題材になっているのだが、それは写実を超えて、真理子の心理を描写している。真理子がこの絵に写しているのは、彼女自身の内面の葛藤である。
―子猫にオスを襲わせよう―
 真理子の最初の決断は、子猫が仲間を連れて、オス猫を襲撃する場面を具体的にどう描写するかであった。部屋の鴨居、書棚、机、ソファー、テーブル、窓など、いたるところに子猫たちがいて、部屋の真ん中の床の上にうずくまっているオスの親猫を凝視している。これらの子猫は、オスが、幾匹ものメスに産み落とさせた子猫である。その事実をオスは忘れている。真理子はそれをオスにわからせるためには、どう描写すべきかに迷っていだが、その手段として真理子が選んだのは、子猫による襲撃だった。
 オス猫から離れたピアノの上に一匹のメス猫を配置し、その姿を眺めさせる。襲撃の光景にメス猫が、どう反応するかを描くことにも頭を悩ました。子猫たちが、メスの親猫に立ち向かうか、無視していっせいに退散するか、いずれの情景を選択するかにも真理子は迷っていた。
 真理子の歯がゆさは、言葉が通じないことなのだ。真理子自身の心は激しく動いているのだが、それを猫に通わせる手段がない。
 真理子が苦痛をこらえて描いているときに、哲と彩子が訪ねてきた。玄関のチャイムが鳴って二人の顔が映っている。驚いた真理子は、自分の眼を疑ったが、親しそうな笑顔がクローズアップされているので、急いで玄関のドアに向かった。
「驚かして、ゴメンね」
 彩子は前触れもなしにやってきたので、真理子の驚いている様子がよくわかった。
「僕と彩子さんと二人で、真理子さんを慰めようって相談したのです。アポも取らないでやってきてすみません」
 哲は気まずそうに頭を下げていた。
「気にしない、気にしない。仕事中だけれど、気分転換にちょうどいいのよ」
 真理子は上機嫌になっていた。真理子は二人を客間ではなくて書斎に招き入れる。そこで、二人が見たものは書き散らされた猫の絵だった。
「すごい場面よね。真理子、いつからこんな図柄を描くようになったの? 殺気走っているよ」
 彩子は驚いたように見入っていた。哲も圧倒されたようだった。絵の中の子猫たちの目は、金、銀、赤に塗り分けられて蛍光を放っている。オス親の目はブルーで沈み込み、メス親の目は黄色く光っている。そして、子猫たちは、あらゆる方角からオス猫を襲撃する姿勢をとっている。
「真理子の怨念ね。真理子は両親を許していないのよ」
 彩子は絵から真理子の心を察している。子猫の中のどれかが真理子自身かもしれないと彩子は思った。
「メスが傲慢な顔でオスを見下ろしているね。真理子」
 彩子の問いかけに、真理子は笑っていた。
「お紅茶にしようか、哲、手伝ってよ」
 真理子は、絵に見入っていた哲に声を掛ける。
「わかったよ、姉さん」
 哲は、何の抵抗感もなしに、「姉さん」と呼んだ。これに驚いたのは彩子である。
「姉さんって、真理子のこと?」
 その声は高かった。
「哲がそう思い込んでいるだけじゃないかな」
 真理子は冷たく笑っていた。彩子は、衝撃を受けていた。
作品名:色即是空 作家名:佐武寛