色即是空
哲はフリーターである。職場は転々と変わっているが、哲にとっては当然のことで、むしろ楽しんでいるようである。真理子が、
「将来はどうするつもり?」と尋ねたときに、
「学習を活かして,起業するつもりだ」と答えた。
哲が考えている起業の内容に真理子は興味をもって、突っ込んで聞こうと思ったこともあったが、他人のことを詮索するのは、卑しい趣味だと自戒して、尋ねることはしなかった。その真理子が、偶然に知ったのは、哲の父親が自分の父でもあるという衝撃的な事実だった。
哲を育てた祖母は母親のことを、「哀れだ」といったそうである。母親の名は隆子だった。祖母は、
「隆子は男にだまされた。上京して勤めた芸能プロダクションの所長と名乗る男だったが、隆子をデビューさせてやるといって関係を持ち、哲が生まれたが、認知しなかった。隆子はその男が好きだったので、それでも我慢して同棲していたが、哲を育てる意志がその男にはなく、隆子はそれでも男とは別れたくなくて、哲をわたしに預けた」といっていた。
哲からこの話を聞いた真理子は、そのときはまだ、この男が自分の父だとはわからなかったが、その男がこの祖母に宛てた手紙を哲から見せられたときに、この男は自分の父に違いないという確信をもった。手紙には、
「・・・以前、結婚した女に子を産ませました。産まれた子は女で、真理子という名前をつけました。母親は有名な女流作家で、子を産むと僕を邪険に扱うか無視するので離婚しました。オスとメスの関係は長くは続かなかったのです。作家の宇野千代さんも言っていました、オスとメスは四、五年だってね。それであの人は再婚を選んだそうです。僕は再婚をしないで同棲を選んだのですよ。悪く思わないでください」
と書いてあった。真理子は唖然とした気持でこの手紙を読んだ。自分の名前が出てきたときには、目を疑ったが、何度読み返しても「真理子」であった。
―捜し求めていた父親が、この人だったとは思いたくないが、自分には真理子という娘がいたと、わざわざ書き込んでいることに、父親らしいものを感じる気持もある―
真理子はこの男を許したいと思うが、女にだらしがない男だと軽蔑する気持もわいていた。真理子には、母のほうがこの男よりも意識が上だっただろうという確信のようなものがあった。
―母とこの男はだましあっていたのではないか。男は女を自由にしていると錯覚し、母はオスを相手にしているぐらいの感覚ではなかったのか―
真理子は一人暮らしをはじめてから、女と男の距離を愛情以外で測る打算のようなものを知るようになっている。
―わたしは哲が好きだ。だけど、同棲しようとは思わない。哲とわたしは助け合っている。それで二人の思いが通じれば愛することもあるだろうが、独立した二人の関係は守りたい。それも、哲とわたしの父親が同一人物かもしれないとわかったいまでは、愛することも難しくなった。哲とわたしは姉弟として付き合っていこう―
真理子は一種の決心をした。
―父捜しの旅もこれで終わりにしよう。自分の子に責任を持たないで、女を孕ませるだけの男を父と思うのも気分のいいことではない。人としての愛をこの男はもっていなかったのかも知れない。オスにすぎなかったのだ―
真理子の心には、父との決別の思いが走っている。
真理子には、哲のことが気掛かりだったが、これ以上哲とかかわっている理由がなくなったようで、店じまいにしたい気分でもあった。
―哲の父親は行方不明だというが、またどこかの空の下で好きなように生きているのだろう。子供をつくって、女も子供も捨てているかもしれない。その血がわたしの体の中に流れているのが恨めしい。できることなら、血管を掻ききって流し出したい―
真理子は母に逆らって父捜しに上京したのだが、その父に幻滅している。
―哲は自分の父親が、わたしの父でもあるということを信じているのだろうか。手紙の中にわたしの名が書いてあったというだけで、それがわたしだという証拠にはならないじゃないか。世の中には同じ名のものが沢山いるではないか―
真理子は哲の本心を知りたかったので、手紙を見てから数日後、自室に哲を呼んで尋ねた。
「哲は、あなたの父とわたしの父は同一人物だと思っているの?」
「同じ血が呼び合っているような気がしますよ。でなきゃあ、こんなに親しくなれないでしょう。姉さんと呼んでいいかなあ」
「いつからそんな気持になったの?」
「真理子さんの身の上話を聞いてから、手紙のことを思い出したので、祖母と話し合っていたら、祖母が真理子さんの幼児の頃の写真を見せてくれた。父が祖母に送ってきたのだって」
「それじゃあ、哲は、わたしと会った始め頃から、わたしが、異母姉弟だとしっていたのね。それで親切にしてくれたのだ」
真理子は瞬きもしないで哲を見ている。
「黙っているほうがいいと思って言わなかったのです。ところで、姉さんはこれからどうするのですか?」
哲に姉さんと呼ばれて、真理子はぎくっとした。
真理子が渋谷のマンションを引き払ったのは、それからまもなくであった。
―父親捜しはこれでおわりにしよう。自分が漠然と抱いていた父親像は崩壊している。男女の関係にだらしないのは母よりもこの男のようだ。優柔不断な女たらしかもしれない、きっとそうなのだわ。ほっておいても先方から顔をだすかもしれない。哲が案内してくるかもね―
真理子の思案は広がってゆく。
―哲はわたしに代わって父親を捜すはずだ、わたしのために―
それは真理子の霊感のようなものであった。そう思い込みたい気持が誘い出したものかもしれないが、真理子には期待感が心のどこかに潜んでいたのだろう。父を否定しながらも、心の隅には一目でもいいからあってみたいという気持も動いている。
―母が捨てた男を見てみたい。わたしの父だというあかしも手にいれたい。会えば何かの手がかりが得られるはずだ、顔が似ているとか、気持が通じるとか―
真理子は自分の気持を整理しきれないでいる。その不安定な心理状態をできるだけ落ち着けようと、真理子は仕事に熱中する。
―わたしという人間が、プロとして認められるようになればすべては解決するはずだ。DNAを捜し求めるようなことは止めよう。そうしなくたって、DNAはわたしの中で活動しているのだから、それで十分ではないか―
真理子は自分の血に対するこだわりを捨てることで、父母から自由になりたいと思った。 自宅に籠もるようになってからの真理子は、飼い猫以外は寄せ付けていない静かな暮らしで、もっぱら仕事に打ち込んでいる。
真理子の静かな生活は、仕事の中ではきわめて活発で、神経の休まる暇もない。仕事場で働く真理子は、傍目から見れば机に向かっているだけで、外見的な行動はパソコンの操作ぐらいである。しかしその操作の中では、真理子の知的活動のすべてが動員されている。それが予想外の疲労の原因になっているのだが、
―どうしてひどく疲れるのか、ルールに従って書き込んでいる単純な作業だから、疲れるはずはないのに―