色即是空
この小説を読んで、実在するオスを発見したら賞金を差し上げるという推理ゲームになっている。推理のための条件や状況があらかじめインプットされているが、それで十分なのではなく、推理からオスの具体像を確定なければならない。
―オス捜しに成功するのは女か男か、オスの生態をどちらがよく見抜くことができるのか―
真理子の興味はそこにもあった。男以上に女が男を知っているのか、女でないと男はわからないのか、これは真理子にとって重大な疑問であった。
真理子の母親にたいする反抗は、この行為によって頂点に達している。有名な女流作家の作品が、実の娘によって、あからさまに解剖され、謎解きのネタにされたのである。この作品の背景に読者の興味と好奇心を誘い込んで、ゲームにトライさせるのが真理子の狙いだった。
この推理ゲームはたちまちML愛好者の中に広がって、多くのリプライが寄せられたのである。それには、ゲームを楽しむ以上に、有名な女流作家の相手であった幻の男を探し当てるというブラックな好奇心が働いていたようだ。
―これで、母はさらし者になった。どう判断されようと、これはわたしの母に対する復讐でもあるのだ―
真理子はそう思っていた。しかし実際には、このことで、母親の名はさらに有名になり、小説『春の宵』はベストセラーになっている。真理子は、母の名が広がるのを見ながら、自分の針路を心に求めていた。
―きっと、あの女は噂の陰で傷ついている筈だ。しかし、それにめげる女ではない。わたしに攻撃を仕掛けてくるかもしれない―
母に対する感情が同姓としての女に対する敵愾心に変わっていることを気づいている真理子は、やるせない思いでもあったが、それから離れられない。
―もしやしてわたしに、捨てられた男の未練がとりついているのだろうか―
真理子は、ぞっとするように、自分を鏡に映す。
―自分の背後に、男が写っていないだろうか―
真理子は、鏡の中の自分を見つめながら、その思いを深くしてゆく。自分にこの男が乗り移ったとすれば、自分の行動は自分のものではなくなっている筈だ。
―もしも、男が母を捨てて逃げたのであれば・・・・―
真理子は、そう思ってみたが、即座にそれは否定した。
―母はそれを許すはずがない。地の果てまでも男を追いかけてゆくだろう―
真理子は、母の感情を自分に移入してみたが、それとは逆に、
―母は、捨てられて追いかけるような女ではない。それは母の自尊心の高さからは考えられない―
真理子は迷っている。
ある日、真理子のメールに情報が届いた。
〈オレ、オレ、オレだよ。あんたの探しているオスはオレだ。あのメスがオレを蹴りだしたとき、あんたを孕んでいた。オレはあいつの傍にいて、生まれてくるあんたを見たかったが、あのメスは、それを拒んだのだ。メスにはオレ以外のオスもいたかもしれんが、メスはあんたを自分だけで育てる道をとった。子は自分だけのものだとおもっている。獣にも劣っているじゃないか。子はメスのペットじゃない。あんたもかわいそうだね。あんたに遭いたいけれど、オレの子だと証明できるものがないから、止めとくよ。でも、オレのことを思ってくれているのは嬉しいよ〉
このメールを見た真理子は、納得と落胆の複雑な気持に襲われた。母の身勝手に対する憤りは同感だったが、自分に会わないということには落胆した。
―会って話を聞きたい。血液型や風貌やDNA鑑定で親子のつながりは証明できるじゃないの―
そう思いながら、真理子は会いたくない事情がほかにあるのだろうと想像している。
オス探しの手がかりができたことは、真理子にとって人生の一里塚を超えた想いだった。これからは、自分の思いを整理して、どうするかを決めようと自分に言い聞かせながら、真理子はメールを閉じる。真理子はメールから、自分の中には父の血を流れていることをいっそう強く自覚した。
―わたしの母に対する嫌悪は、このオスのなかにも生きている。間違いなく、これは父だ。オスの思いが自分の体になかにコピーされている―
この思いを抱えて真理子の再出発がはじまった。真理子は文筆で母に復讐することを思い立ったのである。
―自分のなかには、母の血がある。それならば文筆の能力も備わっているはずだ。この能力を使って自活しよう。そうすれば母と対抗できるのだ。それしかない―
真理子は興奮する。思い立つと、すぐにも始めないとすまないのが真理子の気性だった。学業は放棄してもいい、文筆生活を直ちに始めよう。真理子は生活するために、ジャンルをとわないで、仕事をあさった。
真理子はそのために、大学の友達ばかりではなく、日銭を稼ぐためのバイト先の仲間にも応援を頼んだ。
そのなかには、同じゼミの彩子、バイト仲間の哲がいた。彩子は文芸誌の会社にコネがあって、校正の仕事を紹介してくれた。哲は商用の宣伝ビラを書く仕事を持ち込んでくれたのである。真理子は渋谷の1DKマンションをオフイスにしている。ここは都心で行動するのに便利な場所だった。
彩子と哲のサポートを得た真理子は、日常生活のなかの仕事に引き込まれてゆく。真理子自身が気付いたときには、真理子の生活はすっかり職人のそれに変わっていた。スケジュールをこなすために機械のようになっている。
―仕事に疑問など挟んでおれない。仕事の納期がわたしを縛っている。それをこなさないとマネーが得られない―
真理子は現実的になっていた。彩子から、エッセイ連載の仕事が紹介されると、真理子は飛びついた。連載をやれば、収入が安定するからこれほどうれしいことはない。彩子は、すでに出版社の編集部にいたので、何かと真理子の面倒を見てくれた。
―彩子は、わたしになくてはならない友人だ。彼女も、シングル・マザーの娘同然だから、わたしの悩みを理解してくれる。だが、彼女は、わたしのように、自分の母と闘うのではなくて、母と仲良くしている。もしも、父親が誰だかわからなくてもいいのと尋ねたが、生殖医療の進歩で、父二人母三人の子もいるのだからと笑っていた―
真理子は、彩子のように自分もなりきれたらと思うこともあったが、それほどドライにはなれなかった。
―彩子だって、内心では何を思っているかわからない―
この思いを自分に言い聞かせることで、真理子は自分を納得させている。だから、彩子にしつこく質問したりはしないでいる。彩子が自分の気持や行動を理解して助けてくれることをありがたく思っていた。
哲は、真理子よりも年少で、真理子を姉のように慕っている。哲と真理子はバイト先で知り合ってから、身の上話をするような仲になっていた。
―哲とわたしは気が合っている。彼はわたしの気持を察して先回りして助けてくれる。彼は、幼い頃から祖母に育てられたが、高校卒業と同時に上京し、一人暮らしを始めた。そのせいか、彼は一人で生きる知恵を身に付けている。わたしよりも生活力があるから頼もしい―
真理子は、いつしか哲を頼りに思うようになっていたが、気安い友達という意識であった。真理子が仕事の都合でショッピングに行けないときは、ケイタイで哲に頼んで買ってきてもらう。もちろん、哲にはバイト料を支払う。