色即是空
春彦は後に立っている哲をなじるように見る。
「お父さんが来たから治ったのだよ」
春彦は狐につままれたような顔をした。部屋の中はきれいに整頓してあるし、隆子の和服姿が華やかである。髪のセットもきれいに整っている。
「今日は春彦さんのお誕生日だからお祝いをしようと思って哲に呼びにいってもらったのよ。そういわなかったの、哲」
「そんなこと言えば、この人は来ないから、母さんが病気で大変だといったのだ」
「ひどいわね。ごめんなさい」
隆子が春彦に謝る。お祝いの食膳は、サーモンステーキ、お刺身の盛り合わせ、果物と野菜のサラダ、そしてメインは鯛の浜焼き、日本酒、ワイン、ビール、食事のあと、ローソクを立てたケーキとコーヒーで締めくくった。春彦は思わぬ歓待に心を和ませている。先ほどまでの不安がウソのように消えていた。
この夜、春彦は隆子の家に泊まったが、ベッドを共にはしないで、哲と同室する。隆子がそれを望んだ。そのことが、隆子になお精神的な傷害の残っている証拠のようであった。同じ寝室の哲が、「母さんは躁鬱症なのだよ」といったので春彦はすべてを飲み込んだようである。
「最近は母さんの具合がよかったから、お父さんの誕生日祝いをしようと言うことになったのだよ」
「ありがとう」
春彦は嬉しかった。隆子の躁鬱症を治してやるには青梅で一緒に暮らすのがいいだろうと改めて思案する。
春彦と彩子が男女の関係を持っていると哲から聞かされて憤怒した真理子は、隆子と春彦を離別させるべく隆子の家を訪ねるはずであったが、その後、哲との連絡が途絶えて、ためらっている。母の菜穂子は真理子一人で行くように言ったが、真理子は哲を連れて行くほうが決着を付けやすいと判断していた。彩子の件で興奮し前後もわからないくらいになっていた自分に気付く冷静さを取り戻すと、自分の実の両親を別れさせるというのは子供のすることではないと思うようになった。哲だって同じじゃないか、口では別れさせるといったが、それは菜穂子の手前であって実際は別れてもらいたくないのではないだろうか、なんだか、この離別の強要は、菜穂子の手に乗るようなことではないかという疑念を抱くようになった。そのためらいから、哲と一緒なら話をつけに行ってもいいと思うようになったのである。
真理子がなおためらっているときに、哲から久しぶりに連絡がはいる。ケイタイの声は確かに哲であった。真理子は夕餉の支度をしていた手を止めて、ケイタイを持って自室にはいった。菜穂子には聞かれたくなかったからである。
「姉さん、以前の話だけど、母さんは心因性傷害で躁鬱症なのだ。父さんが世話をするといっている。だから姉さんはこちらに来なくていいよ。両親を別れさせる話はなかったことにしよう。僕は言い過ぎていたと反省している。母さんと父さんは本来仲がいいのだよ」
「彩子のことは本当なのでしょう?」
「ウソではない。だけど、恋愛じゃなくて、性交ゲームだったが、終わっているよ」
「ほかにも複数の女と遊んでいたといったでしょう。それはどうなっているの」
「父さんは、事業を止めたときに、女たちには手切れ金を渡して清算したよ。このことは母さんから聞いたので確かだよ」
「母さんの生活はどうなっているの」
「母さんにも蓄えがあるし、父さんが生活費を出している」
「どうして一緒に住まないの」
「母さんの希望なのだ。姉さんと僕を手放したショックから夫婦生活を拒否するようになったのだと父さんが言っていた」
「じゃあ別れればいいのに」
「二人は心で愛しあっているのだよ。だから、父さんのほうが犠牲者なのだと思う」
「女遊びはどうなるのよ」
「母さんが認めているのだ」
母は自分たち子供を引き離されたことから心因性傷害を抱え込むことになったと知らされて、真理子はショックを受けた。これまでは、実父・椎名春彦の不行跡で母・隆子が苦しめられておるとばかり思い込んでいたことが見当違いだったとわかったのである。
「哲は間違った情報をわたしたちに知らせたのね。いま言ったことは本当なのね?」
「父さんの女遊びの情報が氾濫していたから、僕は母さんが犠牲者だと思ったのだ。もっと正確に調べればよかったのだが、探偵社の者だって表面的なことをレポートしてくれたのだ。僕が予見を持っていたからそれを鵜呑みしてしまった。それで、僕は母さんを救いたいと思ったから姉さんにも菜穂子さんにも助けを求めたのだ。僕は父さんを誤解していたし、母さんの心もわからなかった。夫婦って、他人には見せない心の秘密があるのだと初めて知ったよ。だからごめんね。姉さんにも菜穂子おばさんにも申し訳ないのだけど、父さんと母さんのことはそっとしておいて欲しい」
「しばらく考えさせてよ。菜穂子母さんにも相談しないといけないから」
二人の会話はそれで切れた。真理子はケイタを閉じながら納得のいかない顔をしている。
真理子の戸惑いを振り切るように、哲は母の隆子を春彦の家に移す決意をする。ためらっていた隆子も実子の哲と一緒に暮らせるのならばと承諾した。
「お父さんとお母さんは一緒に暮らすのがいちばんいいよ。これまで張り合ってばかりしていたから、お母さんは病気になったのだよ。お父さんも年だから落ち着いて来たし、俺も同居するから心配は要らないよ」
「哲の言うとおりだ。これからは人生の休養期間だと思って共に過ごせばいい。僕も仕事を間引いて家にいる時間を多くするから畑仕事や花作りをしよう」
「それがいいね。俺は畑仕事の経験があるから役に立つよ。季節の野菜をいろいろつくればいい。花も温室栽培すればすばらしいものが育つよ」
「哲はすっかりその気になっているのね。わたしもしっかりしないと迷惑を掛けるから元気を出しましょう」
隆子は親子の情を感じていた。それはこれまでにはなかったことなのだ。それだけでも隆子の病状は好転する。元来が気の疲れから生じたやまいであるから心の安らぎを覚えることが最上の薬であった。
「青梅の里の家は元々が僕の両親の家だったことがわかって不思議な縁に驚いているのだ。いつか隆子と一緒に墓参したお寺も近くにある。あそこに住むように両親が呼び寄せてくれたように思う。移るのならはやいほうがいいよ」
春彦は自分自身をも納得させるように話していた。これが人生の終着点かも知れないという思いもある。これまでのことは長いさすらいの旅であったという実感が春彦の心をよぎっていた。
「青梅の実家へ隆子と哲を連れて戻るとは夢にも思わなかった。第一、僕の借りた家が僕の実家だったということは最近になってわかったことなのだ。あの家を発見したとき、初めて出会った家なのに昔から住んでいたような感覚が湧いて、懐かしい気分に包まれたのも、今思えば、両親が僕に寄り添っていたのだろう。不思議なことだが、実際に体験したのだから、あの家に両親の霊が居ると思う。僕たちが住んで供養してあげれば安心して成仏されるだろう」