色即是空
哲も自分が告げ口したことになるからやめて欲しいというので、隆子をしばらく観察しているしかないとあきらめている。
哲が自分の両親である春彦と隆子を離婚させるとまで菜穂子と真理子に言ったことを春彦は知らなかったが、隆子の様子について話し合っているときに、哲はぽろっとそのことを告白した。そのとき、春彦は睨むように哲を見たが怒りはしなかった。驚きのほうが先立っていたのである。
「哲には心配をかけたのだなあ。僕の女遊びを嫌って隆子か別居したと思い込んでいたのだね。隆子は自分で独立したいといいだしたのだよ。いまの隆子を見ていてはっきりわかったのは、哲と真理子を取られたことで心的傷害を抱え込んでいたのだ。典型的なPTSDだよ。それを長い間押さえ込んでいたのだろう。僕との性交を拒む原因はそれにあると思う。僕の女遊びのことなんかじゃあない。隆子はそんなことで嫉妬し狂うようなやわな女ではない。それを菜穂子も真理子も哲も誤解していたのだよ」
「随分勝手な言い分じゃないか。自分の女遊びのことを棚にあげてさ」
「女遊びのことを責めるが、隆子も承知の上だった。哲を手放してから、隆子は夫婦の交わりを拒否してきたのだ。産んだばかりの子供を手放さなければならなかった母親の苦しみと嘆きが彼女をそうさせたのだよ」
「・・・・・」
「隆子が仕事に夢中になったのは、その苦しみから逃げるためだったと気がついたのだ。僕が傍にいるとその心の痛みが酷くなるとわかったので、彼女との別居を承知することにした。僕も隆子も愛し合っている。離婚するなんてこと考えたことも無い。隆子の心の傷が癒えてくれれば青梅の家で一緒に暮らすつもりだよ。年月が経てばそのときが来ると思う。哲もそこに住んでくれれば隆子の心は癒されるだろう」
春彦はしんみりと話した。哲は、自分も菜穂子も真理子も誤解の上に立って判断していたことを思い知らされたように後悔している。
春彦が文筆家としてデビューするきっかけになった作品は「母の死霊」である。これは春彦が心に抱いてきた幻の母に対する思慕を綴ったエッセイであるが、これまでに自分の人生を導いてきたのは二歳で別れた母であるという確信を持ったのは、彼が母の墓参りをしたときに受けた不思議な霊感が根拠であった。
隆子と二人で探し当てた青梅の寺で発見した母の墓は苔むして傾いていた。墓碑には母と父の名前が刻んである。母の名は菊、父は吉雄であった。春彦が始めて知った名前である。玄も奈美も教えてはくれなかった。だが、墓に手を合わせていると、母が自分を呼んでいる声が耳元に伝わったのである。その声は瞬間のことで聞き直すことは出来なかった。春彦は隆子にその声が聞こえたかと尋ねたが、隆子は、「何も聞こえなかった。春彦さんの空耳じゃないの」と言った。
亡霊などはあるはずが無い言いながら死者の霊を祭るのが普通の人間である。死霊は認めているが亡霊は認められないと言うのは、死者が亡霊となって現われるのは科学的にはありえないと割り切っているのだが、霊魂の存在を否定出来ない宗教的感情があるとでもいうのだろうか。もし霊魂の存在を否定しながら墓参りをするのであれば自己矛盾である。よく言っても、生きている者の気休めということになるだろう。死者が現われたとか、死者の声が聞こえたとか、霊感が働くとか言うことは、妄想とか、迷いとか、信じられないことと一笑されることが多いが、体験者がいることも真実である。春彦はその一人だった。
青梅の里に春彦が居住するようになってから、彼の行動は以前には無かった落ち着きが見られた。文筆に取り組むほかは、畑仕事に精を出し、都会生活の垢がすっかり取れたように見える。この家が自分の生まれた実父母の家であったことを知ったとき、彼は、
「身震いがして恐怖がとまらなかった。両親が僕を引き取ったのだと思う。死霊は確かに存在しているのだ。これから僕はこの家で両親と一緒に暮らすことになるのだと思うと、嬉しいよりもおそろしい。両親の死霊がいつも僕を見ているようで身が固くなる。成仏してもらわないと僕自身が病気になるかも知れない」
と、この家の大家である村田一郎にもらしている。
春彦は、隆子をこの家に引き取り、哲も呼び寄せて僕の家族を両親に見せれば安心してくれるかもしれない、そうすれば成仏して墓場に戻ってくれるだろうとも思い、寺の住職にも相談した。
「あなたをこの家に引き寄せられたのは、偶然ではないでしょう。お母さんは死後ずっと、あなたをみまもっておられたのです。ご両親のお墓に長い間、どなたもおまいりで無かったので無縁塔に移そうとしたことがあったのですが、その前日に一輪のお花が供えてあったのです。多分、お墓参りにこられたどなたかが供えられたのでしょう。身内の方なら一輪の花を供えることはありませんので、どなたかが残り花を挿されたのか、知人の方だったかもしれませんが、この供花に胸を打たれて、お墓の整理をやめたのですよ。それはご両親からの、このままにしておいてくれという言葉のようにわたしは受け止めました。見かけは偶然でも、本質は必然だったのです。いま、あなたの周りに起きていることもだから偶然ではないでしょう」
住職の話したことに、春彦は顔を引き締めた。全身の血が抜けるような寒気を覚えたのである。春彦は自分がこの家に縛り付けられているような気持に襲われている。住職の言葉を繰り返し思い出しては両親の姿を捜すように部屋中を見渡すが目には見えない。だが、傍に居るような気配を感じていた。そのような日が何日も続いたある晩のこと、哲が突然現われた。
「母さんの具合がわるいのだ。俺と一緒に来てくれないか」
哲が息せき切ったように言ったので、春彦は玄関に突っ立ったまま見詰めている。やっと気を静めて、哲は仔細を話した。それによると、隆子は気鬱が嵩じて食事を摂らないようになったので、衰弱が激しいという。
「そんな中で、お父さんの名を呼んでいるのだよ。母に会ってくれないか。いまからすぐだよ。車で運ぶから」
春彦は哲の勢いに圧倒されて、直ぐ出かける用意をする。その心の中には隆子の姿が浮かんでいた。車中で春彦は隆子の様子をさらに詳しく哲から聞きだそうとする。
「医者は気分転換が上手に出来れば病状は改善するだろうといっている。母さんが納得すれば 青梅の家に移してくれないか。父さんが傍にいてくれれば元気になると思うよ。二人が張り合うような生活はもうやめたらいいのじゃないか。お互いに好きでいながら別れて暮らすってことは不自然だよ」
春彦はわが子に説教されたような苦い気分で聞いている。
「哲がいてくれれば、僕も助かるね」
「本当にいいのか。俺は風来坊だからじっくりと親孝行するするつもりはないよ、それでもいいのかよ」
「この際、お前も青梅に落ち着けばいいじゃないか」
高速を降りると都内に出てしばらく走ると渋谷の隆子の家に着く。二人は急いで階段を上がりチャイムを押した。 室内から隆子の声がマイクに伝わる。駆け込むように入った春彦の前に元気な隆子がいた。春彦は拍子抜けする。
「病気じゃなかったのか?」
「どうして」
隆子のほうが訝る。
「哲が病気だからと僕を迎えに来たのだ」