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色即是空

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「久しぶりだなあ。田舎の景色が目に映るよ。毎日、毎日、山畑で働いていた頃がよみがえってくる。これまではその苦労を思い出すのも嫌だったが、この頃は懐かしく思うようになった。郷里を逃げるように出てきたのだが、今では郷里を自慢に出来るようになっている。この料理を食ってますます懐かしくなったよ」
 春彦は上機嫌である。自信が彼を強くしていた。隆子が普通の家庭の主婦だったら、そんな春彦を見て、家庭の温もりに頭から浸りきりになるはずなのだが、二人の子供を取り上げられてしまったあとの隆子には、家庭を楽しむ気持にかげりがあるようだった。
「もう子供は産みたくないし、夫婦で同じ仕事をしていればまさかの時には共倒れするから、わたしは春彦さんとは別の仕事をしたい。わたしたち夫婦はお互いに独立しているのがいいのよ」
「誕生日に、暗くなるような話をするなよ。せっかくの料理がまずくなるじゃないか」
「わたしとしたことが、ぐっちったのね。ごめん、ごめん。急に子供のことを思い出したから、さびしくなったのね」
「それはしかたないよ。でも僕から独立するなんてこと言わないで欲しいね」
「わたし、心配しているのよ。出だしからあまり調子がよすぎるから。春彦さんの実力は信頼しているけど、万一ってことあるでしょう。矢野先生の後ろ盾が無くなれば今までどおりには行かなくなるしね」
「心配しすぎだよ。僕についてくればいい」
 隆子は、「そうします」とは言わなかった。春彦は別に返事を期待しているようでもなかったから、この場はそのまま収まって、隆子はお膳の後始末にかかった。

真理子が東京郊外の旧居を建て替えて隆子を迎え入れようとしたのはこの頃である。そのとき哲から真理子に寄せられた知らせは、隆子が椎名春彦と別れて暮らしているということだった。それに尾ひれがついて、春彦は女遊びにうつつを抜かしているという話まで付け加えられている。その中で決定的なのは、春彦の遊び相手に彩子がいるという哲の言葉であった。これを聞いたとき、真理子の顔が蒼白になり、菜穂子が唖然としたように哲を見たのである。
 春彦と隆子の破局が訪れたのは、隆子が独居し自分の仕事に専念しだしたのが原因なのか、春彦が事業の成功に酔って倫理観が弛緩し、彼に潜んでいた魔性が台頭して、女遊びを始めることになったのが先かは、鶏と卵のような関係であったのではないだろうか。春彦は隆子を愛していたし、母性をすら感じていた。隆子は春彦の恋人であり妻であり、母親代わりでもあったのである。それだけに、隆子が冷たく当たったり、かまわなくなったりすると、春彦は不機嫌になり、駄々をこねるように不満をぶちつける。その果てには、女遊びに走った。それは隆子に対する面当てのような仕業である。しかし、それが嵩じて本気で女に気を移してしまう。だが、こうして出来た女とは長続きしないで、梯子酒のように、ほかの女を漁る悪い癖があった。
 このことが、「椎名は僕の親父だけれど、シングル・マザーをあちこちにつくっている無責任な男です。女も十代、二十代、三十代と手あたり次第です」という哲の言葉となって伝えられたとき、菜穂子と真理子は驚きで声も出なかったのである。春彦の実子である哲が父親をかばうことなく、その不行跡を此処まであからさまに暴露するのは父に対する恨みからであろうか。母・隆子に対する同情からであろうか。その何れでもあるだろうがこの言葉は哲の悲しみを伴ってもいる。
 春彦も隆子も自分たちから進んで生まれたばかりの哲をその祖母に預けたのではない。吾郎の強い勧めにしたがって、生活のためにやむなく預けたのであるから、哲に責められるのは酷なのであるが哲にとってそう言う理由は大人の勝手に過ぎない。しかも、この長い年月の間に何故、自分を取り戻しに来てくれなかったのかという疑問を抱えて哲は育ったのである。この疑念と両親を慕う心から、哲は執念のように両親を探し当てた。
 このとき、春彦と隆子は別居していた。隆子は憔悴し鬱病に罹って居るようだと哲は菜穂子と真理子に伝えているが、母親を思う子供の心理から出たオーバーな表現だったかもしれない。春彦が訪ねてきて三日も滞在しているという隆子の言葉を迷惑しているのだと哲は解釈していたが、隆子にとって深刻な問題でなかったことを哲は見誤っていたようでもある。哲は、父親の春彦が女漁りをするので母親の隆子が嫌悪を感じて別居したと思い込んでいたが、それは誤解であるようだった。これを見抜いていたのは春彦の前妻だった菜穂子である。菜穂子は隆子が春彦に寄せている恋情を見抜いていた。
 だが、何れにしても、真理子が隆子と哲を迎えてあげようとしている新築に春彦が同居することはゆるせないと、菜穂子は断固反対し、春彦と隆子を離婚させようとする。その使いに哲が行くといったが、菜穂子は真理子が行くべきだという。その決定的な理由は、真理子の学友で信頼を置いていた彩子が春彦と肉体関係を持っているということだった。

  隆子が春彦と別居したいと思った最初の動機は、何事につけても隆子に頼ろうとする春彦を自立させたいというものであったが、隆子の知らなかった春彦の世渡り上手によって事業は発展し、二人の力関係は逆転する。その頃から、隆子は以前とは別な不安を抱いた。春彦は調子に乗って失敗するかもしれないと思うようになる。それに輪をかけたのが春彦の女遊びであった。隆子は複雑な気持で別居して事務所兼住居を構える。
 この事務所を開くときには勿論、春彦と吾郎が招待されている。だから、春彦が、哲の頼んだ探偵社の社員から隆子の住所を知らせてもらったと、隆子が哲に言ったことはウソである。隆子は何故そうしたウソを哲に言ったのだろうか。また、哲は、春彦の居所を知っていると、菜穂子と真理子に告げているが、アドレスまでは知らさなかった。
 春彦は、隆子の按じたように、矢野先生が急死してまもなく、先行きのことを考えて廃業した。余裕のあるうちにそうしたので倒産ではない。彼は蓄えた資産を持ってしばらくは静かに暮らすことにしたのである。そこで隆子にだけは新しい住所を知らせて、青梅の田舎に移ったのである。そのために借りた家が、二歳のときまで住んでいた両親の家であった。その事実を知らないで彼はこの家を借りたのである。
 此処で春彦は自前の生活を楽しんでいる。都会生活で身についた汚れを落とすように晴耕雨読を決め込んでいるが、時には都会の空気も吸いたくなって、御茶ノ水のカルチャーセンターで文芸教室の講師を引き受けている。最近になって、哲とそこで出会うようになった。
 春彦が隆子を訪ねるのは、このセンターの帰りのときだった。隆子は春彦と会うことを楽しみにしているのに、春彦が連泊すると、不機嫌になる。春彦が夫婦の気安さで性交を迫ると拒否する。そのことを言わないで、哲に春彦が来て迷惑だといった。春彦が自分を探し当ててやって来たというのは、隆子の妄想である。哲からその話を聞いた春彦は、隆子の精神に何か異常が起きているのではと心配になって、隆子を医者に診てもらおうかと思ったが、そのことを隆子に言うことは憚った。
作品名:色即是空 作家名:佐武寛