色即是空
「小さく初めて大きくするのが商売のやり方でしょう。最初から大きなオフイスはいらないでしょうよ。こんなに大きいオフイスは経費がかさんで大変だわ。収入の目当てもなしにどうして維持するつもりなの。IT機器や印刷機などのリース代やオフイスの賃借料などの固定費がかさむのよ。それに人を雇えば人件費も払わねばならないでしょう。これではまるで子供が夢をみているようにしか思えない。仕事を今すぐに取れる見込みでもあるの」
「そんな思案はあとまわしがいいよ。やってみないとわからないからね。当分は奈美さんにもらった財産で食いつないでいけるよ。始めから儲かるはなしはないのだから、どれだけ持ちこたえられるかが勝負じゃないか。この業界にデビューするのはこのやり方のほうがいいのだよ。田地の一部はまだ残してあるから、まさかのときは田舎に帰って農業をやればいいじゃないか」
春彦は、隆子の心配に全然取り合っていない。
「春彦さんはいつからそんな能天気な人間になったの。財産を譲ってもらって安心したのね。この調子だったらすぐに使い果たしてしまうわよ。心もサイフも締めないといけないと思う」
隆子は春彦を睨んでいる。春彦の意見には明らかに不満だという気持が隆子に現われていた。
「隆子は僕についてくればいいのだ」
春彦は隆子に反発するように言う。これまで、隆子にすがり付いていた春彦とはまったく別人のようである。その態度は、春彦に生きる自信が湧いてきたことを示しているようだが、突然変異のようで、この先、何が起きるかそれが隆子には心配であった。
このときを境にして、春彦は仕事の主導権を自分が握るようになった。何事も隆子の意見に従っていたこれまでとは様子がすっかり変わっている。やる気を起こしたというよりは、何かの熱に犯されているように突き進んでいた。隆子はその姿をハラハラしながら見ている。
「音楽配信やゲームなども手がけて先のある仕事をしようと思う。活字文化の世界だけでは時代に取り残される。出版は一発勝負で勝たないと駄目だ。
感性に訴える仕事をしないと商売にならない」
春彦は自信ありげに話している。その調子の良さに隆子は呆れ顔であった。
「春彦さんはもう少し落ち着いた人だと思っていたのに、無鉄砲になったのね。これでは先が案じられるよ。初期投資や維持費をどうして回収するの。その見込みがあるのならいいのだけれど」
「同じことを何回も言うなよ。僕にまかせておけばいいのだ。これまでは、吾郎や隆子になんとなく押さえつけられている気分ですっきりしなかったのだが、これからは自分の思うようにやれる。この機会を待っていたのだよ。気分が晴れ晴れとして、やる気が充満しているのだ。隆子の心配はありがたいけれど、僕の思うようにさせてくれ。長い冬を過ぎてやっと春を迎えたような嬉しさだよ」
春彦は満面を紅潮させている。隆子はその姿を見て、もう止めようが無いと観念しているようである。
「そう、それなら好きにするがいいよ。吾郎さんや私から飛び立ちたいのね。一生懸命に心配してあげているのがかえって迷惑なようだから、もう口出しはしないよ。わたしはその代わりに自分の仕事をやらせてもらいます。あなたのオフイスのマネージャーは務まりそうに無いから」
「それはないだろう。せっかく一緒にやろうと言っているのだから協力してくれないと困るよ」
「わたしに依頼心を持たないのがあなたの決心じゃないの。それに一緒にやって共倒れしたくないのよ」
隆子は春彦が失敗するのを見透かしているような口ぶりだった。
「それならいいよ。僕は隆子の助けは借りないでやるから」
二人の会話は気まずい雰囲気を残して終わった。
春彦のオフイス開きには百名の客が招待された。ちっぽけな編集工房の開業披露にしては予想外の人数である。これだけの客をどうして集めたのかそれ自体が不思議なくらいであった。それにも増して、その顔ぶれば多彩である。出版社、ジャーナリズム、芸能人、音響業界の面々が揃っていた。これだけの人を集めたのは、春彦の郷里出身の代議士・矢野荘平の肝いりがあったからである。春彦はいつの間にかそういう交友関係を開拓していた。春彦の自信を裏づけていたのはこういうことかと隆子は目を見張る思いである。
招待客は祝宴を楽しむだけではなく、ご祝儀をかねた商談にも臨んでいる。これは荘平が仕組んだもので、あらかじめ根回しをしてあったから、スムーズに運んだ。通例ではこの場での商談なんて無いのが普通であるが、荘平は自分のプレゼンスにあわせて春彦に最高の贈り物をするためにこれを企画させたようである。そのことを隆子は後になって春彦から知らされた。
春彦の仕事は順調なスタートを切った。社員は男子二名、女子三名を正社員に雇い入れ、通常業務をこなすほか、必要によって派遣社員を受け入れている。春彦が開業に当たって構想したネットワーク型のビジネス展開も協力者を得てスムーズに立ち上がった。
「矢野先生のおかげで信用もついた。持つべきは郷里の先輩だ。そのうちに、奈美さんにも可知さんにもいい知らせをすることが出来るだろう」
春彦は上機嫌で隆子に話している。自分の仕事をすると宣言した隆子は、吾郎との仕事関係を復活してアートデザインを受注している。春彦はそれを励ますだけの心の余裕を持つまでになっていた。
「いい知らせって何のことよ」
隆子が気になるように尋ねる。
「東京見物をさせてあげようと思っている。矢野先生にも会ってもらって地元での後援会の世話役になってもらおうと考えている。そうすれば僕と隆子の株も上がるだろう。このままだと駆け落ちの噂だけが広がっているだろうからね」
隆子は春彦がいつの間にこんな処世術を身につけたのか驚いたように春彦を見ている。その眼差しを春彦は笑顔で受けていた。
春彦は矢野先生の傘下に入って事業を安定させる道を選んだ。そのお返しは選挙のときの献金と票集めである。同業者の中でも持ちつ持たれつの関係を築いてやっていけるのは矢野先生の有形無形の力が働くからであった。春彦が矢野先生を後援するのには同郷の先輩と後輩の間柄という地縁関係が大義名分として存在していたから、わりととスムーズにその輪を広げることが出来て、春彦の世界は次第に広がってゆく。春彦はこの潮に乗って、業界を泳ぎ、業界の役職や関連団体の世話役を引き受け、その地位を確立した。
「田舎から飛び出してきて今日まで落ち着かない生活が続いたが、これで僕も安定したから、隆子は自分の思うようにすればいいよ。自立して自分の仕事に専念するのもいいだろう。勿論、僕の仕事を手伝ってくれるのならありがたい。隆子の才覚はビジネスに向いているからね」
春彦は食卓に着きながら自信ありげに喋っている。今日は春彦の誕生日というので、隆子は春彦の好きな郷土料理をつくった。といっても、田舎で母の可知が作ってくれた手料理を真似たもので、食材は地元でとれた野菜や果物に川魚などである。春彦は深酒をするタイプではなく、美食家でもない。土の香りがするような素朴な料理が好きである。