色即是空
「わたしも年だからそろそろ身の回りの整理をしておこうと思うようになった。そこでだ、田圃を少し春彦にやるから、カネに変えろ。わたしからの選別だと思って受け取ってくれ。隆子さんを春彦の嫁にもらって、わたしのあとを継いでもらおうとおもとったが、彦太郎を婿にしたので、二人とも逃げてしもうた。わたしはお前たちを恨んだぞ。彦太郎は、その心の隙につけ込んで、好き放題をするようになりよった。それで、恋も愛も冷めたのじゃ。このごろは、わたしたちの仲はかさかさしとる。こんな家に帰って来いとは言われん。お前たちも帰ってくるつもりはないだろう。好きにすればいい」
と、自分の気持を打ち明けた。春彦はその言葉に、奈美の寂しさを感じている。
「たまには帰ってくるから元気でいてください。ところで、僕の実の両親のお墓は何処にあるか教えて欲しい。お墓参りをしたいと思うので」
春彦はやっと、此処にやってきたわけを話した。
「そうじゃなあ、確か、青梅村の竜泉寺という寺の墓地に埋葬したね。あの時分はまだ火葬じゃなくて埋葬できたから。あのあたりは開発が進んですっかり変わっとるそうだから、今でもあの寺があるかどうかわからんが、近くまで行って人に聞けばわかるだろう。お墓参りとはよう気がついたものだ。春彦をお墓に連れてゆかなかったのは、わたしが悪かった。」
奈美は感心したように言ったが、春彦を貰い受けてから一度も春彦をお墓に連れてゆかなかったことを後悔しているようでもあった。
青梅の龍泉寺は残っていた。春彦と隆子は春彦の両親・佐助と文の墓を墓地の片隅に茂る樹木の下に発見する。墓碑は青草に覆われて傾いていた。誰も手入れしていないことが一目瞭然である。二人は力を合わせて草をむしりとり清掃を済ませると、寺の住職に回向を依頼した。
このことがあってから、春彦と隆子はなんとなく落ち着いた気分になって、再び安定した生活に戻る。気付かずに見落としていたことを気付かせてくれた吾郎にも感謝し、仕事の勢いも取り戻した。それで二人が別居するという話は立ち消えになる。
春彦が見違えるほどに明るくなってようやく隆子を安心させる暮らしをもてるようになったのには、奈美がその財産を春彦に生前譲与してくれたことも大きな働きをしていた。これは金銭的な問題だけではなくて、彦太郎の婿入りに始まって、春彦が抱くようになった奈美に対する不信感が解消したことも大きな働きをしている。
青梅の墓参りはあれ以来、月に一度は欠かさずに続いていた。そのときには隆子も必ず同道する。東京の渋谷からはかなりの距離なのだが二人にとっては問題ではない。墓参りを済ませることでその月の区切りがつく思いのほうが優先していた。
「此処に来れば気分が休まる。両親の顔は覚えていないのに、自分の体が温まるような気がする。気持だけのことじゃなくて、実際に体温が上がっている。僕の心を締め付けていた悲しみが消えてゆくのだ。それはまるで、僕に取り付いていた母が僕の体から出てゆくような感じなのだよ。こんなことは、他人に話しても理解されないだろう。隆子にもわからないと思う。それでも僕にとっては実体験なのだ。この不思議な体験を僕のこれからの人生の原点にしたい」
春彦は神妙な顔で隆子に話した。隆子もそれに釣り込まれるように聞き入っている。墓所という場所柄にすっきり溶け込んだ二人の姿がそこにあった。
仕事が順調に行くと、春彦は吾郎のオフイスから独立したい問い言い出し、隆子を悩ませる。
「いつまでも吾郎の世話になっていると僕は独立の機会を失ってしまう。仕事も軌道に乗ったから、この分なら二人で独立してオフイスを構えることが出来るだろう。吾郎に話してみよう」
春彦はうきうきとしている。まるで自分のオフイスがすぐにでも立ち上がるような歓びようであった。
「春彦さんはすぐに調子に乗るのだから困ったものよ。此処までこられたのは吾郎さんのおかげでしょう。吾郎さんの支援があったからですよ。それを忘れてしまったの]
「忘れてなんかいない。ありがたいとおもっているよ。それだからいつまでも厄介者になりたくないのだ」
「そのかんがえかたはいいのだけれど、吾郎さんに相談してからにしないといけないよ。自分の結論を突きつけるようなことはしないで頂戴ね」
「わかっているよ。僕はそこまで傲慢じゃない。だけど、僕の決心は固いのだ」
「それがいけないのよ。いつからそんなに自信過剰になったの」
「両親の墓参りをするようになってから、僕は生きる力をもらったのだよ。自信過剰なんかじゃなくて、どんなことがあっても自分で独り立ちしなければいけないと両親が諭しているような気持にされるのだ」
「なんだか気味悪い話ね。死霊が春彦さんの心を動かすなんて」
「何の縁も無い人の霊だったらおそろしいが、はっきりと父か母さんとわかっているのだから怖くないよ」
「それなら、そのことも吾郎さんに話してね」
「吾郎が信じるかなあ」
「だって、春彦さんにご両親のお墓参りを勧めたのは吾郎さんでしょう」
「そうだった。それなら話は早いよ。吾郎にこのことを話せば僕の決心をわかってくれるだろう」
春彦は愈々自信を得たように喜んでいる。隆子は春彦のこの調子のよさが不安だった。とにかく、二人で吾郎に相談することで、この場の話し合いは決着する。二人が吾郎と会ったのはその数日後であった。
「そうか、そうか、よくわかった。春彦も俺から独立したいと思うようになったのか。これまで面倒を見てきた甲斐があったというものだ。隆子さんが一緒に働いてくれれば安心だよ。それに、春彦の両親の霊が守っていてくださるのならこれほどありがたいことは無い。春彦の独立に賛成するよ」
吾郎は実にあっさりとしていた。春彦は何か条件を付けられるのではないかと気がかりだったから拍子抜けしている。
「よかったわね。吾郎さんに了解してもらえて。でも、これからは吾郎さんの援助を当てにはできないよ。自分から独立すると言ったのだから」
隆子は春彦の気持を確かめるように言っていた。それはまた、自分の決意を吾郎に伝えているようでもある。
荒天に風雨を突く無謀な航海になるかもしれなくても、春彦は順風満帆の船出だと思い込んでいるから、不安をまったく感じていない。奈美から譲与してもらった資産をカネに変えて元手にした春彦は、隆子がとめたにもかかわらず、新しいオフイスをオープンする。
「椎名編集工房の披露パーティを開くつもりだ。そのためには見栄えのいいオフイスが欲しい。それで新築のこのビルディングを選んだのだ。御茶ノ水という立地も気に入っている。此処は大学の街でもあるし仕事の足場としても最高だろう」
春彦は一人で悦に入っているが、隆子にはその姿が気がかりであった。