色即是空
ー僕は女に優しくされるとすぐ本気になって慕ってしまう。商売女に騙されているとわかっていても振り切れないでずるずると付き合ってしまう。そんなことがあってはならないのだと心では否定しているのだが、気持は別のところにある。そういうことを繰り返して今日まで来たのだ。菜穂子のこともほかの女の子ともそうだった。だけど、隆子だけは違う。僕は隆子を自分で選んだのだ。二人は結婚すると誓い合った。隆子を守るために僕は奈美の家から出たのだよ。あの家には彦太郎が入り込んで来て、僕と隆子は農作業に酷使されることがわかっていたから逃げたのだ。隆子は僕のあとを追ってきたが、遅すぎたのがいけなかった。もっとはやく出てきてくれたら、菜穂子のことは起こらなかっただろう。僕は本当に運の悪い男なのだ。まともに生きてゆきたいと頑張るのだが、いつも魔がさして邪魔される。隆子が居なければ僕は生きる元気がなくなってしまうー
春彦の嘆きはいつもこのようなかたちで自虐的になる。だけど、どこかで自分の不幸を何かのせいにしてしまう。これがなければ、春彦はまっすぐな性格で真面目に働くいい青年なのだが、すべてを自分の責任で解決する勇気がない。その気弱さが春彦の人生を暗くしている。
春彦と隆子が再び別れたのはこれからまもなくである。二人の仕事は順調で暮らしも楽になっていたが、それだけでは満たされない心の空白を隆子は抱えていたようである。隆子から春彦に対する愛がなくなったわけではない。愛すればこそ満たされないものがあることに隆子は悩んでいた。
―このままわたしが傍にいれば、春彦さんは独り立ちできない人間になってしまうのではないか。春彦さんはいつもわたしを当てにしている。それをわたしが助けてしまうからいけないのだわ。しばらくわたしは身を隠そう。そしてかげから春彦さんを見守っていよう。別れるのではない、離れるのだから吾郎さんも納得してくれるでしょう。春彦さんの自立をみとどければ帰ろうー
隆子の思案が此処まできているとは知らないで春彦は、隆子に頼りきった生活を続けていた。男と女の立場が逆転しているような暮らしぶりである。この姿を吾郎は笑っていた。
「隆子さんも大変だなあ。大きな子供を一人抱えているようじゃないか。春彦は仕事も出来るし気立てもいいのだが、何かにすがっていたい気持が強いのだ。自分の面倒を見てくれる人が欲しいのだよ。そして、その人が母親であるように思っているのだろう。隆子さんは、春彦の妻でありながら母親のように慕われていると思うね」
「わたしが母親代わりですって。その感情を捨てさせてあげないと駄目ですね」
隆子はまさかと思いながら、そうかもしれないという気もしないではなかった。そのとき吾郎が驚くようなことを言ったのである。
「隆子さんは春彦の両親のお墓に結婚の報告を済ませたかね」
この言葉は隆子を動転させた。
「春彦さんの両親って、奈美さんは生きて居られますよ」
「そうじゃないよ。春彦の実のお父さんとお母さんだよ」
隆子は自分の愚かさを思い知らされた。春彦から実の両親のことは聞かされていたから、当然、そのことを思い出すべきだったのだ。
「まだ報告に行っていないのなら、早速、お墓参りに二人で行くのだ。このお母さんが春彦にとりついていると思わないか。隆子さんが真理子ちゃんと哲君を自分から引き離されたのは、このお母さんが隆子さんを春彦の嫁とは認めていないからだろう。そして、春彦が隆子さんによりすがっているのは、実は、お母さんに寄りすがっている姿なのだよ。霊視者だったらきっとそう言うと思うね」
吾郎に言われたことを実行しようと決心して隆子は、春彦にそのことを告げたが、春彦は両親の墓が何処にあるか知らないといった。
「奈美さんが知ってるのじゃない? 奈美さんに聞いてみたら」
隆子は単純にそういったが、それが出来ない現状だと気がついて迷った。
「聞けるわけないだろう。二人で田舎に帰るのなら別だが、そのつもりはないのだから無理な話だよ。それに、奈美さんが知っているかどうかもわからないじゃないか」
「電話か、手紙で尋ねてみたらどうなの」
「馬鹿だなあ、こちらの居所が知れるじゃないか」
「何故そんなに隠さねばいけないのよ」
「だって、引き戻されるだろう}
「戻ったっていいのじゃない。きっぱり決着をつけて、わたしたちは再び東京に出てくればいいでしょう」
「それもそうだが、そううまくいくかなあ、奈美さんに会えば、捨てておけなくなるだろう。僕を育ててくれた母なのだから」
「彦太郎さんがいらっしゃるでしょう」
「それだから困るのだ。あいつは椎名の家や財産を乗っ取ろうとしているのだよ。だから、母が邪魔になっているはずだ。母が死ねば家も財産も自分の名義に書き換えられるからね」
「奈美さんの死を待っているというの」
「その前に無理やり名義変更させるかも知れない。この家を実質に支えているのは俺だといって。そのために働き手に息子の雄介を養子に入れたのだ」
「恐ろしいわね」
「奈美さんが彦太郎に惚れ込んだのがいけなかったのだよ。初恋の人だったからすべがよく見えたのだろうが、夫の玄さんの死後に迎え入れた彦太郎は、昔の彦太郎ではなく欲の塊のような人間になっていた。奈美さんはそれが見抜けなかったのだ。いい年をして少女のように恋に酔っていた。僕にはそれば見えたから家出したのだよ。君がきっとあとを追って東京に出てくると信じてね。でも、それが遅すぎている間に僕は過ちを犯したのだ」
春彦はいつもとは打って変わって饒舌になっていた。隆子はそうだったのかと頷いている。
「それだったら、ぜひ奈美さんに会って様子を知ったほうがいいのじゃない。私も行くから、この際、わたしたちのこと決着を着けておいたほうがいいでしょう」
隆子は渋っている春彦をはげまして、田舎に行くべきだと説得する。春彦はなかなか決心しなかったが、
「それじゃあ、私たちは別れるしかないよ。いつまでもあなたのお母さんの霊に悩まされ続けるのはごめんだからね」
隆子が語気を荒げて殺し文句を言うと、春彦はその剣幕に押されてしぶしぶ承知した。
三
このことがあってまもなく、二人が揃って奈美の家の玄関に立ったとき、奈美は庭に出ていて、二人を見ると吃驚して立ちすくんだ。
「春彦じゃないか」
奈美の声は上ずっている。その声を聞きつけたのか、彦太郎が玄関に来た。
「春彦です」
「隆子です」
二人が挨拶すると、彦太郎は怪訝な顔をして見詰めた。返す言葉はなかった。突然の来訪に肝を抜かれたようだった。
「中へは入れや」
奈美が二人に促がす。二人はその後について座敷に上がる。 日曜日の午前九時頃だったが、彦太郎は仕事がるといって出て行った。なんとなく気まずい雰囲気の中だったが、奈美が茶を立ててくれてからは、気分も和らいで、久々の話が長々と続く。その話の最中に、奈美は、